2020/04/12
駛馬天満宮(福岡県大牟田市)
菅原道真考
菅原道真公の間違いではありません。
藤原道真について考えるので、
「考」なのです(笑)
この方が失脚せず、大宰府にも流されず、
朝廷の中枢に居続けたならば、
全国にあまた存在する天満宮は、
存在せず、全国の受験生は
受験生は皆困り果てたでしょう(笑)
しかし、現実には左遷され失意の中
太宰府で没し、
その墓所が安楽寺天満宮となり
その後、明治の神仏分離で名称が、
太宰府天満宮に変わり、
御祭神としても元々の怨霊と
恐れられた時代から、
完全に脱皮した道真公は、
学問の神様として崇敬を集め、
今につながっています。
やはり菅原道真公の左遷は、
「神の采配」だったのでしょう。
左遷されて、良かった~(笑)
人の世界はまだまだ科学では
証明出来ないことばかりですね(笑)
駛馬(はやめ)天満宮へ
元々の計画では、海沿いにある
一挙に内陸部の駛馬天満宮まで
タクシーでワープする予定でしたが、
たまたま来たバスに飛び乗って、
大牟田駅西口まで行き、
駅前の「路面電車204号」を眺めながら
ようやくありつけた弁当を平らげ(笑)
お腹を満たした後に、
大牟田駅東口からタクシーで移動しました。
社頭に到着。。
ここでいきなり目に飛び込んできたのが、
こちらです。
ヤクルトスワローズの
マスコットキャラ、つば九郎?
そんなはずは無い(笑)
こちらは、鷽(うそ)ですね。
天満宮と言えば「鷽替え神事」。
なので、阿形の鷽なのでしょう。
吽形のつば九郎・・・
ではなく鷽。
さらにここで注目なのはこちら。
お化粧狛犬(笑)
髪を染め、マニキュアもつけ
おめかししていますね!
吽形はさらに華やかです。
一の鳥居。
ここも大牟田駅西口近くの
彌劔神社同様に黒っぽい鳥居で、
柱には、
天保十五年(1844年)の
建て替えと刻まれています。
神門。
神門をくぐると境内が一望出来ます。
まず気になったのは、古い灯籠です。
天明六年(1786年)の奉納なので、
北国方面では、教科書で習った
「天明の大飢饉」真っ最中ですよ。
そんな中、灯籠を奉納する余裕があるのは
南日本はあまり関係無かったのでしょうか?
そして、この灯籠のてっぺんに注目。
250年もの昔から既に
「梅のロゴ」が使用されていたのですね!
そして、次は超個性的な狛犬です。
胸の張り方が凄い(笑)
吽形の迫力も度肝を抜かれます。
作者の心意気、
確かに受け止めました!
台座の文字も狛犬同様に
かなり個性的ですね。
飛梅。
拝殿
あれこれ道草しながらも
ようやく拝殿に到着。
菅原道真公に参拝。
拝殿内には菅原道真公ゆかりの
「木彫りの牛」が奉納されています。
阿形の天狗と、
太陽の絵柄の軍配団扇。
吽形の天狗と
月の絵柄の軍配団扇。
確かに動と静の太陽と月は、
阿吽と通じるものがありますね!
令和の文字と
その語源となった和歌の一文。
最後に「一晴かく」の文字があったので、
ネットで調べてみると
福岡県出身の書家の方が
書かれたようで(推測です)す。
素晴らしい文字にしばしうっとりでした!
本殿
本殿の周囲には塀があります。
そんな塀には、珍しく勝手口?みたいな
出入り口があって、何だか気になります。
この本殿、正面を除く3方向に
観音開きの扉があり、
これもまた珍しいものではないでしょうか。
境内社など
御社殿向かって右横には、
大きなクスノキがそびえ立っています。
境内には何本もある
大きなクスノキですが、
このクスノキの枝ぶりが、
特に優れていていたので、
勝手に御神木に指定しました(笑)
阿弥陀堂。
神仏習合の名残でしょうか。
稲荷神社。
二つの文化財
境内には石の文化財が
二つ置かれています。
「宮原天満宮石幢残欠」
大切な石塔を守るためなのに、
何だかその逆に石塔が
檻に入れられたようですね。笑)
上4つの石と5番目は関係なく
積まれています。
彫られた絵の隅に残された銘文から
貞和七年(1351年)
藤原助継という人の作品と
分かっています。
もう一つは、檻ではなく(笑)
お堂的な建物に安置されています。
「宮原石層塔残欠」
こちらも幾種類かの石を
積み重ねたもので、
元は五重石塔だったことが
銘文からわかっていて、
貞和六年(1350年)の作品です。
完全な形でなくとも、
このような古いものを残して来られた
神社や崇敬者の方々の努力は
頭が下がるばかりですね。
こちらは頭を上げて(笑)ツーショット。
御朱印もいただきました。
文字は、まさに
「駛走(しそう)する馬のお宮」を
彷彿とさせる躍動感だし、
「奉祝」の金色使いも華やかで
元気百倍ですね!
今日のアート
神門入って右側の建物の絵。
神社とその周辺の観光案内が
分かりやすく描かれています。
その中、僕たちがこの後行く予定の
「宮原鉱第二竪坑」の
鉄骨製竪坑櫓が、
神社から見えていたのです。
一の鳥居の島木と貫の間に
絵と同じ構図で立っています。
天保十五年の昔からここに建つ鳥居、
明治時代の宮原鉱第二竪坑誕生から、
世界遺産となった令和の現在まで、
じっと動かず(笑)
にここで見守っていたのですね。