第二奇兵隊関連史跡(山口県光市)

 

見所が混在

光市の石城山(いわきさん)には、

幾つもの見所が混在しています。

パンフレットの写真ですが、

石城山はこんな山です。

見所は、それぞれが

独立したものではなく、

大まかに言うと、全てが、

石城山神籠石(こうごいし)という

今から1300年ほど前に作られた

古代朝鮮式山城の

中にスッポリ入っているイメージでしょうか。

僕たちは、時間が足りないのと、

暑さで激しく体力消耗した事もあり

主なもの三ヶ所を巡ってみました。

その一つが、

「第二奇兵隊関連史跡」です。

第二奇兵隊とは?

高杉晋作の奇兵隊は知っていましたが、

第二奇兵隊という名は、

ここに来て初めて知りました。

パンフレットの案内を超訳すると

「文久三年(1863)

高杉晋作が「奇兵隊」を結成。

慶応元年(1865)藩東部の

正義派の志士が集まり、真武隊を結成、

後、南奇兵隊、第二奇兵隊と改称。

本陣を石城山に移す。」

このような経緯で、

ここに第二奇兵隊の史跡が

残っている訳です。

パンフレットを見ると、

第二奇兵隊の史跡は

ここ石城山だけでなく、

光市の各地に残っています。

練兵場跡

駐車場のすぐ横、

練兵場跡から散策開始。

今はのどかな広場です。

案内。

一部抜粋すると、

「射撃訓練では、

五十センチ四方の赤土を詰め、

この箱に人の姿を描いて

標的にしていた。」

このように書かれています。

迫りくる危機を思い、

必死に訓練していた姿が

目に浮かびます・・・。

神護寺仁王門

次は、衛兵所として使われていた

神護寺仁王門へ。

屋根は昔のまま

茅葺きで残されています。

案内。

「現在は石城神社の随神門であるが、

第二奇兵隊の本陣が

石城山に移された時には、

神護寺の山門であった。

そして、

仁王像が納められていたことから

「仁王門」と呼ばれていた。

転陣後、仁王門は

本陣の正門として役割を果たした。

(中略)

衛兵所の空間を確保するため、

仁王像を引きずり出したという

逸話も伝えられている。

(中略)

現在では随身像が格子戸の中に

納められているものの、

この門は隊士の激しい訓練や

駆け抜けていく様子を知っており、

現存する貴重な

「物言わぬ証人」とも言える。」

このように書かれています。

引きずり出された仁王像、

何処へいったのでしょう(笑)

第二奇兵隊を懐う碑

旧神護寺仁王門から

石城神社の参道を歩くと

左奥に石碑が見えてきます。

第二奇兵隊を懐う碑。

案内。

「この句は、

岸信介が詠まれた七言絶句である。

1944(昭和十九)年、

商工大臣を辞して帰郷された岸氏は、

岩城山に登られた。

(中略)

その岩城山を登りながらの思いを

漢詩に表されたものである。

この碑は1964(昭和三十九)年春、

岸氏によって揮毫され、

1965(昭和四十)年に

除幕が行われた。

【読み】

周東の健児起って血盟す

回天の偉業雲を破って成る

千古の秘謎尚解く可し

誰か遺烈を承けて聖明に答えん

(後略)」

このように書かれています。

昭和39年当時、

神籠石とういものが、

宗教施設ではなく、

白村江の戦い直後に

倭国(日本)防衛の為に作られた

朝鮮式山城という確定が、

まだなされてなかったのでしょう。

そして、この時

碑文そっちのけで

僕たちが注目したのが、

こちらです。

案内板の左端に何故か「鎌」が

引っかっけてあります・・・。

鎌と言えば、

昨年関ヶ原松尾山に行って以来

お気に入りの小早川秀秋の家紋、

「違い鎌」。

ちなみにこちらが、

秀秋さんの陣羽織の本物。

秀秋さん、

僕たちの近くにいたのかも?(笑)

本陣跡

次に本陣跡へ。

案内を抜粋、要約、追記すると

「隊士は定員100名のところ

400人を超えており、

本陣である神護寺周辺の

施設整備に着手した。

兵舎、病舎、厠、厩舎が新設され、

約40頭の馬が飼育されていた。

陣屋の新築には、松や杉の他に

約2千本もの竹が伐採された」

このようになります。

本陣跡の奥の神護寺跡へ。

神護寺跡。

最後に千手観音様に参拝。

 

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