本行寺(佐賀市)江藤新平の墓

 

きっかけは8年前

江藤新平はじめ、

幕末の佐賀藩士達の活躍を知ったのは、

8年近く前に行った、

佐賀城本丸歴史館での「寸劇」です。

左から江藤新平、島義勇しまよしたけ

副島種臣役の方々と

8年前、若き日の僕たち(笑)

(役者さんの掲載許可は取っています)

佐賀の乱(佐賀戦争)を題材にした、

お三方の涙を流しての迫真の演技は、

ホント衝撃で、

僕たち二人も涙したのでした・・・

この日を境に幕末維新での

佐賀藩の凄さと深さを知り、

その後も何度か佐賀を旅し、

遂に昨年(令和6年)は、

島義勇が構想した北海道札幌まで飛び、

北海道神宮札幌市役所の銅像などで、

札幌市民の島義勇愛を確認し、

また、

その功績を噛み締めて来ました。

そして、

今回は江藤新平の功績を称えつつ、

お墓参りとなったのです。

「寸劇」の力、恐るべし!

江藤新平の墓

お墓は墓域のいちばん手前、

本堂すぐ手前の参道脇にあるので、

江藤新平さんは、

すぐに見つかります(笑)

パンフの地図を抜粋して確認。

5番が江藤新平の墓。

ここから左を向けば・・

お墓の正面で、

まずは案内を書き出してみます。

「江藤新平の墓

(生没年:1834−1874)」

「江藤新平は、江藤助右衛門の長男として

佐賀城の西北八戸で生まれました。

藩校弘道館で苦学し

学識を身につけました。

脱藩して上京するなど

激動する幕末の政治情勢の中で

広い視野を身につけました。

明治元年(1868)東征総督府監軍・

江戸鎮台府判事として手腕をふるい、

江戸遷都を唱えました。

明治政府では文部大輔(次官)、

左院副議長などを歴任し、

明治5年(1872)には

初代司法卿として、

近代国家にふさわしい

司法制度の整備に尽力しました。

翌6年4月、参議となり

新政府の運営に参加しましたが、

十月の政変で

西郷隆盛らとともに参議を辞任し、

明治7年2月、佐賀藩士族に擁立され

征韓党主として佐賀の乱(佐賀戦争)で

政府軍と戦って敗れました。

墓は当初、

鍋島町の蓮成寺にありましたが、

後年この本行寺に改葬されました。」

このように記されています。

「佐賀の七賢人マップ」

本行寺の後は、地図の北側、

島義勇、鍋島直正の墓へも行く予定です。

お墓の前に建つ、

「正保三年(1646)」と刻まれた石碑。

三代将軍家光さんの時代なので、

江藤新平とは無関係でしょう・・

「南無妙法蓮華経 首題一千部成

・・・・萬霊」とありますので、

首題を一千部唱えた供養に

建立されたのかも知れません。

供養という点では、

新平さんも関係あるかな?(笑)

門を入って江藤新平(左)と、

南白夫人の墓所に参拝。

「江藤新平君墓」

墓石の文字は盟友、副島種臣の書です。

(菅原種臣書と刻まれています)

側面には大正五年四月十一日、

天皇陛下から「贈正四位」の位階が

授けられた事が記されています。

江藤新平の辞世は、

「ますらをの 涙を袖に しぼりつつ

迷う心は ただ君が為め」・・・

汚職・不正を許さず、

正義感が強い江藤新平は、

ひたすら国家の近代化を思い、

法整備を急ピッチで進め、

その結果、

大久保利通などの長州閥に疎まれ、

また、憎まれ、

最後は斬首・梟首とされたのです。

辞世を読むと、

斬首される直前の江藤新平の無念さが、

迫り来る気がします。

新平さん、

奥様と二人永遠に安らかに・・・

 

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