豊前街道南関御茶屋跡(熊本県南関町)

 

現地ならではの情報

こちらは南関御茶屋跡で

いただいたスタンプ。

左上には「なんかんトッパ丸」なる

ご当地キャラがあしらわれていますが、

ここが、「なんかん」という呼称となったのは、

ある大きな出来事がきっかけでした。

南関町をWikipediaで調べると

「熊本県の北西部に位置している町。

町名は古代より

この地に置かれた関所に由来する。」

このように書かれています。

ところが、南関御茶屋跡で

案内の方から教えて貰ったのは、

「以前ここは南の関(みなみのせき)と

言っていたのですが、

明治10年の西南戦争

近くの清勝寺が官軍の大本営となり、

その時、東京へ電報を打つ為、

電報発信地の「南の関」を省略して、

「南関」と頻繁に書いていたのが、

いつしか町の名前自体が

南関(なんかん)になったんですよ。

福岡県との境、

北側にある「北の関」は、

昔のまま「きたのせき」と

呼ばれているんですけどね。」

こんな逸話です。

また、この時の大本営トップ、

有栖川宮熾仁親王は、

三重津海軍所の監督、佐野常民

長野県の龍岡五稜郭を作った

大給恒(おぎゅうゆずる)からの

博愛社(後の赤十字社)設立の

建議を受け、敵も味方も救護するという

崇高な趣旨に感銘を受け、

中央政府にお伺いも立てず

独断で裁可した人。

やはり足を運んでこそ

深堀りができるというもの。

「なんかんトッパ丸」は

こんな由来が

あってのものなんですね。

御茶屋外観

御茶屋ではいくつかの

パンフレットをいただきましたが、

そのどれもが、かなり詳しく、

地元愛にあふれるものでした。

加藤清正が南関城を築造した時に

南関の城下町も同時に

作られたと書かれています。

広い駐車場。

奥に見えるのが御茶屋。

案内。

幕末に作られた肥後細川家の御茶屋で、

人吉城主の相良家や、

薩摩の島津家もこの御茶屋を

利用したと書かれています。

エントランス。

右側の石垣の角は算木積に近く、

積み方も切込み接ぎなので、

南関城の遺構かも知れません。

(勝手な推測)

東側から。

細川家の九曜紋が入った屋根瓦。

五代藩主、細川宗孝公が、

九曜紋と九曜巴を見間違われ、

人違いで斬り殺された後に

変更した「細川九曜」が

旧来の九曜紋と、

重なるようにあしらわれていますね。

北東側から撮影。

庭園。

南関城への登城道から撮影した、

庭園越しの御茶屋。

御茶屋内部

次に建物内部へ。

修理前と後の比較写真。

内部もこんなに違います。

こちらが現在。

手前から、三の間、御次の間、御居間。

御居間。

殿様が滞在した部屋でしょうか。

オリジナルの釘隠しは、

この一つだけが残っているそうです。

僕はこれを見ると、

どうしてもマーブルチョコを

連想してしまいます(汗)

奥の間へ。

ここで案内されたのが、

こんな格子窓です。

左から右に行くに連れて、

四角形が小さく作られています。

こんなこだわり、

藩主様だから出来たのかな?

今日の注目

御茶屋のホワイトボード。

積極的な活動をされているのが、

ひしひしと感じられます。

 

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