井戸神社(石見銀山)
死ぬ間際の功績
自らの病気と同時に大飢饉と戦い、
サツマイモの栽培を導入したりして、
一人の餓死者も出さず、
領民に尽くし、慕われたのが、
井戸神社に祀られている
石見銀山領代官だった
「いも代官」こと
井戸平左衛門です。
代官となったのが、60歳。
そしてわずか二年弱で亡くなっています。
人生の最終章に、
これだけの功績を残せるなんて、
人は、死ぬ間際まで
何が起きるのか、
何が出来るのかわからないもの・・・
これが、
「無限大の可能性」という奴でしょう。
平左衛門さんの生き様には、
めっちゃ勇気を貰えますね!
御由緒など
まずは、御由緒を確認。
「井戸神社」
以下、案内文です。
「神社には、江戸幕府から派遣された
十九代の代官である
井戸平左衛門が祀られています。
井戸平左衛門は享保十六年から
同十八年(1731〜1733)まで
石見銀山領の代官を務めました。
任期中の享保十七年(1732)に
「享保の大飢饉」が発生し、
西日本の各地では
たくさんの餓死者が出ました。
しかし、
江戸幕府の資料「徳川実紀」によれば
「井戸平左衛門代官所、
夫食(食料)行き届き餓死者これなき由」
とあり、
石見銀山領では餓死する者が
いなかったといいます。
これは、井戸代官が自らの財産や
裕福な領民から募った資金により、
米を買い集めるとともに、
幕府の許可を待たずに
代官所、米蔵を開いて、
飢えた人々に
米を与えたためと伝えられています。
また、
大森町榮泉寺で旅の僧「泰永」と出会い、
やせた土地でも栽培できる
薩摩芋のことを知りました。
当時は主な産地である
薩摩藩からの持ち出しが
禁止されていましたが、
苦労の末に取り寄せて
栽培に成功しました。
井戸平左衛門は享保十八年(1733)
五月二十六日に備中(岡山県)
笠岡で亡くなりました。
その後、
飢饉を救った功績を称える石碑が
各地に建てられましたが、
旧石見銀山領を中心に
約五百ヶ所が確認されています。」
石碑が約五百ヶ所って、
驚異的な数ですね!
こんな人、初めてです。
大田市には100ヶ所もの
頌徳碑(顕彰碑)が残されています。
しかも
太田市のある島根県内だけでなく、
鳥取県、広島県、
岡山県にも建てらているとは、
どれだけ素晴らしい人なんでしょう。
また、
案内の後半部分に先述した
「薩摩芋」について
書かれていますので抜粋します。
「(サツマイモの)栽培はほとんどが
失敗しましたが、唯一福光下村釜野浦の
松浦屋与兵衛が成功、「いも釜」という
貯蔵法も考案し、
翌年からサツマイモ栽培が普及しました。」
この案内に登場した松浦屋与兵衛さん、
参道脇には功績を称える石碑があります。
与兵衛さん、
栽培の成功ありがとう!
そして、
もちろん井戸平左衛門の
顕彰碑もあります。
左右二基。
右側、「頌徳碑」。
左側には「顕彰碑」の文字。
参道
御由緒を一通り確認し、
参拝スタート。
社頭。
木製鳥居。
手水舎へ。
これは素晴らしい!
素朴な自然石と積み上げられた石、
柄杓受けの石の形もいいですね。
何といっても流れ出す、
透き通った清浄な水に癒されます。
この石積みは何を意味するのか?
もしかして・・・
サツマイモかも(笑)
石段。
拝殿。
参拝。
拝殿左から本殿へ。
拝殿と本殿を繋ぐ木橋。
玉垣の隙間から本殿に参拝。
拝殿の左横には、
神饌所っぽい建物があります。
なんか書いてあるので、
近寄ると・・・
井戸神社の歴史が書かれています。
気になるところを抜粋すると
「明治十二年五月二十六日
大教正千家尊福斎王を奉仕し鎮座歳。
明治二十三年来
県道開設により移転の必要あり。
資金を旧幕府領地有志に浄財を募る。
特別寄附者左記の通り。
内閣総理大臣公爵桂太郎、子爵岡部長織、
男爵平田東助、男爵斎藤実男、男爵後藤新平
男爵大浦兼武、小村寿太郎、山本達雄氏等。
伯爵勝海舟筆「井戸神社」扁額を献ず。」
このようになります。
出雲大社の千家尊福さんや、
その他、有名人が関わっています。
そして、この中で書かれた
伯爵勝海舟筆「井戸神社」扁額はこちらです。
井戸神社参拝後、
「いも代官ミュージアム」にて撮影。
最後はツーショットで〆。