いも代官ミュージアム(石見銀山)(1)

 

ネーミング

「いも代官ミュージアム」。

実はこれ、

サブネーム的なもので、

「石見銀山資料館」というのが、

正式名称のようです。

勝手な推測ですが、

世界遺産登録後、

新たなガイダンス&展示施設、

石見銀山世界遺産センター」ができ、

「石見銀山資料館」と何が違うの?

なんて

僕だって思うくらいですから、

そんなセンターとの差別化のための

サブネームかも知れません。

「いも代官ミュージアム」、

僕の心には、めっちゃ響いてきました!

もし、「石見銀山資料館」という

名前だけだったら

入館していなかったかも?

ネーミングって大切だ〜!(笑)

駐車場にて

「いも代官」の愛称で呼ばれる

井戸平左衛門を御祭神とする

井戸神社」を参拝後、

神社近くの「いも代官ミュージアムへ」

駐車場入口。

このすぐ左側に見えるのが、

「西南之役戦死者紀念碑」です。

まずは一礼。

駐車場を整備した時、

この紀念碑部分だけを残したようですが、

それは英断だったと感じます。

明治維新の総仕上げ的な西南の役

「紀念」の言葉通り、

過ぎ去った戦いの記憶を残すことこそ

未来への礎になるのですから。

外観

駐車場から徒歩30秒(笑)

いも代官ミュージアムの

多聞櫓たもんやぐら的な外塀が見えてきます。

この場所は、

大森陣屋(代官所)の

跡でもあります。

長屋門的なエントランス。

「いも代官没後290年記念」

井戸神社には、

「享保十八年(1733)

五月二十六日に備中(岡山県)

笠岡で亡くなった」と

書かれていましたので、

確かに290年です。

(検証の必要性があるのか?笑)

10年後の300年記念は、

さらに盛大になるのでしょう!

ここが幕府の直轄地だった証、

徳川家「三つ葉葵の紋」が、

門幕に燦然と輝いています。

いも代官ミュージアムのサイトには、

邇摩にま郡役所として、

明治三十五年(1902)に

建てられたものを

その後、学校などに流用した後、

昭和五十一年(1976)、

石見銀山資料館として

オープンしたとあります。

玄関。

手動式の引き戸も味があります。

内覧

旅行クーポンで入場料を支払い中へ。

趣ある板作りの

バリアフリー・スロープ。

明治時代、建築当初の棟札と

明治五年の学校の椅子。

まずは、

いも代官をフューチャーした部屋、

「仙ノ山」へ。

「いも代官とは」「人物紹介」。

「いも代官」とは、

第19代石見代官

井戸平左衛門正明のことで、

サツマイモの栽培を奨励し、

領民を飢饉から救った人。

だから「いも」なんですね。

決して「垢抜けない」を比喩する

「いも」ではありません。

「推し絵」で描かれた井戸平左衛門と

サツマイモのオブジェ。

肖像画の手にも

サツマイモを持っています。

「井戸公赴任道中行列之図」。

「井戸家先祖書」

「井戸神社の創建に当たり、

短刀と遺訓書とともに

奉納された井戸家の家譜です。」

このように書かれています。

井戸平左衛門の木像。

井戸神社に奉納された短刀。

案内を要約すると、

「飢饉の領民を救うため、

困難を乗り越えて、サツマイモを入手、

多くは枯れてしまったものの

ただ一人、

松浦屋与兵衛が栽培に成功した。」

このようになります。

伝えられた芋についての案内。

「海上弥兵書状」。

以下、全文です。

「前任代官海上弥兵衛から

太田北村医師中島見龍に充てた

平左衛門を診療したことへの礼状。

これにより平左衛門の赴任時の

体調の様子がうかがえます。」

「平左衛門死す」

幕府に無断で陣屋の米を開放し、

年貢免除した罪による切腹説と

病死説があり、

死亡直前の診断書などからは、

病死説が有力となっていると

書かれています。

「感謝を込めて」

以下、案内の抜粋です。

「平左衛門が亡くなった約80年後、

領内の村々では彼の遺徳を偲んで

頌徳碑(顕彰碑)が

建立されるようになります。

頌徳碑には平左衛門の戒名

「泰雲院殿岳忠良居士」のほか、

「井戸明府」・「井戸正明碑」

などが刻字され、

寺院の境内や往来が盛んな

街道沿いなどに設置されました。

さらに建立者を見ると、

その多くが「当村中・「当町中」

・「当組中」とあることから

地域の人々が資金を出し合って

建立されたことがわかります。

現在確認されている聖徳日は、

島根県を中心に鳥取県西部や

広島県因島市など

約500基にも及んでいます。」

井戸神社でも紹介されていた

500基の頌徳碑ですが、

ポルノグラフィティの故郷、

因島にもあるっていうのが、

ビックリですね!

「井戸平左衛門遺訓書」

「1733(享保18)年4月」

以下説明です。

「病気の井戸平左衛門が

息子の正武(内蔵之助)へ宛てた遺訓書。

幕府への奉公に忠義を尽くし、

慈悲を第一に心がけ、

文武に励み、

先祖を大切にすること、

などを説いています。」

「神様になった代官」

井戸神社創建の経緯について、

また移転による社殿新設にあたり、

桂太郎首相、小村寿太郎外務大臣、

渋沢栄一、大倉喜八郎など著名人から

寄附があったことなどが書かれています。

勝海舟が揮毫した井戸神社の扁額。

かなり綺麗な状態で保たれているので、

鳥居ではなく、社殿内に

掲げられていたのかも知れません。

先ほどの「寄附者」の名簿。

明治時代の島根県知事、

籠手田安定が

井戸神社参拝時に詠んだ和歌。

いも代官関連の著書。

「いも」ばかりで、

ほぼ、本名は出ていません(笑)

1800年ごろには、

江戸でも焼き芋屋が登場し、

人気の食べ物になっていたようです。

いも代官コーナーはここまでで終了、

ここからさらなる展示へと移動します。

(続く)

 

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