医王寺(福島市)佐藤継信・忠信の墓
一言で・・
福島市の医王寺を
一言であらわすと、
「源義経の忠臣、佐藤兄弟を偲ぶ、
「悲しくも誇らしい歴史」に
直に触れられるお寺。」
でしょうか。
またここは、
源義経、弁慶、松尾芭蕉、
そして皇太子時代の天皇陛下など
錚々たる方々が訪問した、
由緒ある古刹でもあり、
その足跡は石碑やゆかりの品々で、
感じることが出来ます。
パンフレット
パンフレットは、至って現代風で、
主要文字にはルビも振ってあり
大変分かりやすいものとなっています。
佐藤継信・忠信兄弟を
イメージキャラとし、
小学生にも興味をひく構成、
なかなか良いじゃないですか!
パンフ内面。
僕たちが入っていない
瑠璃光殿(宝物館)の宝物、
弁慶が背負っていた笈(おい)が
気になります。
笈とは仏具入れの事だそうで、
極端に言えば、
「携帯寺院」みたいなものでしょう(笑)
奥の院へ
佐藤兄弟と源義経像にご挨拶を完了し、
次に奥の院と呼ばれる、
佐藤兄弟などの墓地へ。
境内の突き当たりが奥の院です。
目立つお墓への案内もあり、
迷うことはありません。
ここで石碑を発見。
「平成八年四月二十六日
皇太子殿下 同妃殿下
行啓記念碑」
この石碑があればこそ、
現在の天皇陛下が、
ここを訪問されていた事を知れたので、
石碑効果は絶大です(笑)
竿部分がない超レアな燈籠。
地震で竿部分が倒れ、
その後、
笠・火袋・中台などの上部パーツを
基壇に安置したのでしょうか・・
いい意味安定感抜群かも?
奥の院、
鯖野薬師堂前に到着し、
まずはお堂背後のお墓へと向かいます。
佐藤継信・忠信の墓
この日は平日だったからか、
ここに僕たち以外は誰もいません。
やはり墓参というのは、
こんな環境が一番落ち着きます・・
右が、佐藤継信・忠信の墓、
真ん中が、佐藤基治の墓、
左が、佐藤氏奉先碑。
佐藤継信・忠信の墓にお参り。
法名。
お墓手前の顕彰碑を要約すると、
「平安末期 信夫の荘司佐藤基治は、
源義経公の臣従として、その子継信公、
忠信公の兄弟を遣わせて義経に対する
徹底した護衛を命じた。
兄弟共にその命を守り、
継信は屋島の戦いで、
忠信は京都に於いて、
義経の身代わりとなり亡くなった。
更に兄弟の妻たちが悲しみを抑えて
兄弟武将を装って
姑の乙和を慰めた孝心等
数々の故事は
後世の私たちに感動与えている。」
このようになります。
佐藤基治・乙和の墓
次に兄弟のお父様、
佐藤基治の墓へ。
佐藤継信・忠信のお墓もそうですが、
切妻屋根と西洋風の鉄柱で
構成された覆屋を考えた人、
素晴らしいと思います。
この明るい雰囲気、
きっと御霊たちも
居心地いいはずですからね・・・
法名。
参拝。
医王寺の石造供養塔群
お墓の裏側には多くの
石造供養塔が建てられています。
松島の雄島などで見た
供養塔と似ていてますね。
同じ東北なので、
供養の慣習も似ている所があるのかな?
かなり古いものもあるようです。
以下案内の要約です。
「医王寺近くの摺上川沿岸は、
数多くの板碑、石塔が分布し、
当寺はその一中心地をなしています。
奥州型板碑、関東型板碑など
六十余基が保存されています。
多くは摩滅して
建立趣旨などが不明ですが、
弘長・正和・建武・永和などの
年号が刻まれているものもあることから、
鎌倉時代中期から
南北朝のものと考えられます。」
板碑に「○○型」なんてあるんですね!
佐藤氏奉先碑。
漢文なので、よく分かりませんが、
佐藤継信が屋島の戦いで、
義経の身代わりとなって
討死したことなどが
刻まれているようで、
顕彰碑的な位置付けなのかも
知れません。
乙和椿
奥の院最後は乙和椿へ。
案内を要約すると、
「つぼみが色付いて落ち、
一輪も花と開かな悲史母情を知る椿
義経の家来として
継信・忠信の二人を西国に失った
母乙和の悲しみは、
謡曲「摂侍」などに伝うる所である。」
このようになります。
歌碑。
「咲かで落つ
椿よ西の空かなし
黙翁」
鯖野薬師堂(さばのやくしどう)
鯖野薬師堂の漢字は、
「魚」+「青」なんですが、
僕の知識では、
文字変換出来ないので、
医王寺さんは失礼して
ここでは「鯖」としています。
参拝。
佐藤一族が信仰した薬師如来が
本尊として祀られています。
ちなみに医王寺の「医王」とは、
薬師如来の別名なので、
本堂よりもこちらがある意味、
「主役」的存在なのかとも
思ってしまいます・・
鯖野薬師堂と佐藤継信・忠信兄弟の墓。
鯖野薬師堂と佐藤基治・乙和の墓
欄干に吊るされた石、
これはいったい何でしょう?
薬師如来が叶えてくれるものと言えば、
「病気平癒」が有名ですが、
何かの病気が治りますように、
または、
治りました有り難う!
的なものかも知れません。
(続く)