伊都国歴史博物館(福岡県糸島市)(2)

 

明示する親切

伊都国歴史博物館の展示は、

勿論素晴らしいものでしたが、

印象に残っているのが、

常に「明示」してある事。

「聞かずとも理解出来る」というのは、

人に声を掛けたりするのが苦手な僕には、

特に重宝します(笑)

その最たるものが、

昨日のブログでも書いた

「写真撮影OK」についてです。

ひと目で「撮影OK」と理解出来ますね!

そして、

「撮影した写真は私的な利用に限ります。

営利目的でのご利用はできません。」

このように案内されています。

このワンフレーズが、

僕が一番聞きたい事!

この親切な案内を見て、

愛知県新城しんしろ市の

設楽原したらがはら歴史資料館でも

同じような体験をした事、

思い出していました(笑)

第Ⅰ章 王墓誕生前夜

「伊都国誕生」の展示は、

第Ⅰ章~第Ⅳ章で構成され、

まずは、

第Ⅰ章の展示からスタート。

ここからは、

案内を抜粋・要約しながら

書き出してみます。

展示関連地図

第Ⅰ章の展示と案内。

右側、

「糸島地域における有力者の出現」

「糸島地域でも弥生時代中期初頭には

久米遺跡の甕棺墓に

細形銅戈が副葬されており、

有力者が出現したと考えられます。」

左側

「王墓出現前夜の様相」

「北部九州においては

弥生時代前期末から中期中頃にかけて、

各地域に青銅製武器などを

副葬した有力者の墓が出現し、

有力者が一般の人々と区別された

方形区画に埋葬されるものもあります。

さらに吉野ヶ里遺跡北墳丘墓のように、

この区画に

巨大な墳丘盛土を持つものも現れます。

吉野ヶ里遺跡北墳丘墓の規模は、

三雲南小路王墓に匹敵しています。

このような墓の存在は、

王墓へと続く有力者の

発展段階を示すと考えられますが、

次の時代に出現する王墓との

決定的な差は、

有力者個人が墓域から他者の墓を

排除できていない点にあります。」

第Ⅱ章 王墓誕生

次は王墓誕生。

右側、

「三雲南小路王墓の発見と

これまでの経緯」

「王墓の発見は200年前、

文政5(1822)年でした。

発見時のようすは福岡藩の国学者

青柳種信が詳細に記録しており、

王墓の内容を知る上で

欠かせない資料となっています。

その後、王墓の正確な位置は

忘れられるが、昭和49・50年、

推定地で甕棺を発見。

王墓を含む三雲・井原遺跡は、

平成29(2017)年に

国史跡に指定されています。」

左側、

「三雲南小路王墓

昭和の再発見」

「推定値を掘ったところ

甕棺の破片や鏡の破片など

多数が見つかったことから

文政5(1822)の甕棺発見地の

すぐそばである可能性が高まり、

北側に調査区を拡大し、

甕棺出土地点の再発見と

新発見の2号甕棺の

検出につながりました。」

右側、

「三雲南小路王墓の構造」

「王墓の平面規模は

一辺が32mを超え、

青柳種信の記録を踏まえて考えると

墳丘の高さは2mほど推測され

他に類をみない巨大な墳丘墓であり、

まさしく伊都国王の墓として

ふさわしい威容を誇っていたことが

わかります。」

左側、

「三雲南小路王墓1号甕棺」

「「筑前国怡土郡三雲村所堀出古器図考」

には甕棺を掘り上げた記録があり、

発掘調査時に

甕棺が見つからなかったことから

種信の記録の正確さを

裏付けることになりました。」

右側、

「三雲南小路王墓2号甕棺」

「2号甕棺は、

1号棺のすぐ隣に埋められていました。

平安時代に盗掘を受けていましたが、

甕の大部分が残っており

多くの副葬品も出土しました。」

左側、

「三雲南小路王墓の被葬者」

「多くの銅鏡の発見で、

1号甕棺は男性の王が、

2号甕棺には、王妃が埋葬されて

いたのではないかという説があります。

1号甕棺の副葬品には、

中国の王侯クラスが所持する鏡があり

埋葬された人物は中国から

「東夷の王」と認められていた

可能性が高いと考えられます。」

こちらは常設展の甕棺の実物。

大きさの比較のため妻登場(笑)

「立岩堀田遺跡(福岡県飯塚市)」

「立岩堀田遺跡は遠賀川の上流、

嘉穂盆地の立岩丘陵上にあります。

三雲南小路王墓と同時期に

嘉穂地域に存在した

権力者の墓と考えられています。

三雲南小路王墓との

深い関係性を示すのは、

銘文、寸法、鋳型傷などが

一致する鏡の存在で、

双方の墓に埋葬された人物には、

交流があったことが想像されます。」

重圏「姚皎」銘鏡

「連孤文「清白」銘鏡。

これが、

銘文、寸法、鋳型傷などが

一致する鏡ですね!

単圏「久不相見」銘鏡。

「須玖岡本遺跡D地点(福岡県春日市)」

「伊都国王墓である三雲南小路王墓と

同時期の権力者の墓としては、

奴国王墓とされる

須玖岡本遺跡D地点があり、

ここでも多くの副葬品が発掘されています。

三雲と須玖の王墓とでは、

双方で大型鏡と鏡の大量副葬という

共通点があるものの、鏡種をみると、

彩画鏡、雷文鏡は三雲のみ、

草葉文鏡は須玖のみと違いがあります。

鏡の入手先や入手方法、

被葬者の趣向が

反映された結果と考えられます」

実際に書かれている内容の

半分も書き出していませんが、

考古学愛があふれる、

実に素晴らしい展示ですね!

(続く)

 

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