伊都国歴史博物館(福岡県糸島市)(3)

 

にわかマニア(笑)

僕は、あまり古代史に興味はなく、

古墳があっても「ついでに行く」タイプ(笑)

しかし、

お金を払って入館したからには、

何かを持って帰りたくなる貧乏性(汗)

今回も「にわかマニア」に変身し、

貧乏性全開の

伊都国歴史博物館の観覧でした(笑)

第Ⅲ章

展示での表題は、

「第Ⅲ章 ここまでわかった!

伊都国発掘200年の成果」です。

ここからは、展示パネルを

抜粋・要約していきます。

展示室の風景。

右、

「伊都国王都ー三雲・井原遺跡」

「三雲・井原遺跡は、瑞梅寺川と川原川にはさまれた扇状地に位置し、

面積は60haに及ぶと考えられています。」

左、

「伊都国の集落拠点」

「「王都」三雲・井原が、

各集落を統括していたと

考えられています。」

「水銀朱とベンガラ」

右側、

「伊都国は、大陸由来の水銀朱の

大量消費地としても知られ、

王墓や有力層墓からの出土例が多く、

三雲南小路王墓、平原王墓などでも

大量の水銀朱の使用が認められています。

赤の顔料といえば、伊都国社会における

ベンガラの使用も顕著です。」

左側、

「ガラス製品」

「ガラスは、伊都国社会の中では、

そのステイタスを示す威信財として

多様な保有形態が認められています。

出土したものはいずれも高品質で、

本年、注目を集めた話題としては、

連玉があります。

径5mmほどの小品ですが、

性質の異なる二種のガラス管を

二重に重ねて溶着した重層構造で、

蛇腹状にかしめられ、

見た目は3~5個の小玉が

数珠繋ぎに連なったように見えます。」

赤色顔料サンプル。

神社で使われる渋い朱赤の

「ベンガラ色」は、

弥生時代以前からあった事を知り、

ちょっと感動ですね(笑)

「青銅器・鉄器」

「伊都国域で出土する

対外交流を示す資料として、

中国貨幣・鏡・刀子鞘尻金具などの

青銅器、鋳造鉄斧などの鉄器が

主なものとして挙げられます。

中国貨幣について、

貨泉(表面に「貨」と「泉」の文字が

鋳出しされた硬貨の事)は、

新の王莽が正暦14年に鋳造し、

鋳造期間が短く限られていたことで、

暦年代の指標資料として提示されました。

貨泉が発掘されるのは、

当時の海岸線に近く、

楽浪土器、鉄器など

船積品が多く出土する集落遺跡で

発見される傾向があることから、

交易において実貨幣として

使用された可能性が指摘されています。」

 

弥生時代、

福岡に於いて、貨幣経済が、

存在した可能性があるというのは、

なかなか凄い事ですね。

「玉を作る集団」

「玉作りが盛んだった糸島地域には、

玉作りに関連する

8箇所の遺跡が見つかっていて、

水晶などの材料は、島根県花仙山や、

北陸からも入手した。」

弥生時代に九州と北陸との

交流があるというのは、

初めて知りました。

船で運んだのでしょうかね?

「土器にみる地域間交流」

「伊都国では

弥生時代~古墳時代にかけて、

国内外の広範な地域との交流を示す

朝鮮半島、国内の東海地方、

畿内、中国地方、九州内などの

土器が出土しています。」

「木製品」

この中で注目がこちらです。

漆塗筒型容器(復元)。

これは素晴らしいですね!

弥生時代~古墳時代の

作者の技術力の高さもさることながら、

復元された「個人」の方に

敬意を表します!

「交流を担ったもの」

「交流の多くは、

丸木舟の舷側や舳先、艫に板を立てた

「準構造船」と呼ばれるもので、

入った水を掻き出すための

「アカトリ」も出土しています。」

船に入った水を人力で掻き出しながら

遠方まで航海する・・・

弥生時代、

安全基準は、

めっちゃ甘かったと見ます(笑)

「伊都国人の祈りと造形・絵画」

「伊都国人の造形としては、

人や動物を象った、

木製品・土製品があります。

一般的にまつりの場面で

使われたとされています。

人形木製品については、先祖を祀る

祖霊祭祀などの場面で

使われたことが想像され、

鳥形木製品についてはさおの頭につけ、

複数本を聖域の周りに立て、

並べることで区画したとする鳥杆説ちょうかんせつ

集落などへ悪霊や外敵の侵入を

防ぐための境界を示したとの説などが

唱えられています。」

鳥のくだりを読んで思い出したのが、

こちらの光景です。

佐賀県、吉野ヶ里歴史公園の「門」。

ここでは境界ごとに

「鳥」が僕たちを監視していました(笑)

弥生人は空から地上を見下ろせる

鳥の能力に、「監視」の能力を

見出していたのかも知れません。

「板石硯・線刻文字」

「平成27年、

三雲・井原遺跡番上地区で

国内二例目となる石硯が出土しました。

「魏志」倭人伝には、

倭に送られた「文書」などを

伊都国の港で確認することが記されており、

国内に文字を理解できる人物が

いたと考えられてきました。

石硯の発見は文字の使用を裏付ける

貴重な資料となったのです。」

「文字に関するもう一つの重要な遺物は、

甕棺に書かれた線刻文字で、

「鏡」と解読されています。」

貨幣といい、文字といい、

弥生人・古墳時代の人、

実に素晴らしい~!

(続く)

 

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