彦根城の旅(滋賀県彦根市)其の弐
豊臣氏の抑えとしての彦根城
1602年、
関ヶ原で西軍だった島津軍から受けた
鉄砲の傷が癒えず、
井伊直政は亡くなったそうです。
しかしそんな傷を負わされた島津と
徳川家康の中を取り持って
島津氏の薩摩藩本領安堵に尽力したのも
井伊直政というから
この人の器量はやはり大きいというか
大局を見る目があるのですね!
その直政が関ヶ原の戦い直後、
徳川家康から拝領したのが、
西軍の指揮官だった石田三成の居城、
佐和山城でした。
そして、さらに豊臣氏に対して、
また関ヶ原で西軍だった
豊臣恩顧の西国の大名の抑えの要所として、
佐和山城に代わって、
この彦根城が築城されました。
なので、このお城、もの凄く
戦闘的かつ鉄壁な防御となっているのです。
大阪夏の陣で豊臣氏が滅ぶまでは
徳川家康も全く油断していなく
常に戦闘態勢を考えていたのでしょう。
彦根城を見ると
徳川家康の、用意周到で、
緻密な性格がよくわかります。
大手門から黒門へ
彦根城には大手門の他に
表門というものがあります。
本来は大手門=表玄関ですが、
この名前だと
どちらがメインゲートなのか
分からないようですが、
実は時代によってメインが変わっています。
1615年大坂夏の陣で豊臣氏が滅びるまでは
大阪向き南側の大手門がメインに、
それ以降は西側の表門がメインになったようです。
もちろんこの二つが対になって、
ゲートとしての役割以外、
攻撃、防御としての役割を担っていたのは
言うまでもありません。
米蔵跡。
幕府の預り米5万石分を納める
米蔵17棟がたっていた場所で、
昭和25年に梅林として整備され、
季節には格好の行楽地となっています。
内堀に面した石垣。
元は何だったのかは不明です。
ここは竪堀に面した
彦根城特有の山の斜面にある登り石垣。
このお城、
敵を寄せ付けないための工夫が
随所に凝らされているのが分かります。
石垣を上った先には
西の丸三重櫓があります。
土塁から見た内堀。
恐らくこの門から
舟が出入りしていしていたのでしょう。
門の内側の石垣。
山崎郭の櫓跡。
ここからふっと正面を見ると
こんな光景が!
伊吹山です!
いきなり壮大な雪山が現れて、
僕たちは感動しまくりでした。
玄宮(げんきゅう)園へ
大名庭園の玄宮園へは
一度内堀を渡り有料区域を出ます。
黒門出入り口から外へ。
橋からの石垣と内堀。
外から見た黒門。
以前はここにも櫓がありました。
玄宮園入口。
ここは建物コーナーの楽々園と
庭園コーナーの玄宮園とがあり、
まずは、楽々園から散策します。
以前は黒門の前にあるのにちなみ
黒門外屋敷とか黒門前屋敷と
呼ばれていたそうです。
幕末桜田門外の変で暗殺された
大老、井伊直弼(なおすけ)も
ここで生まれています。
大老というから老人かと思いますが、
亡くなったのは42歳だったそうです。
外観。
楽々園は今、
復元工事が着々と進められています。
書院は完成していました。
その他の建物は工事中。
全部完成したら
素晴らしいものになりそうです。
楽々園は元々、槻(けやき)御殿と呼ばれ
ケヤキを使った豪華な御殿でした。
楽々園(槻御殿)全景。
次に玄宮園(庭園)の散策です。
園内から彦根城天守を臨む。
園内から彦根城天守を臨む。その2。
園内から楽々園方面を臨む。
園内全体が見渡せる
湖面に浮かぶ八景亭。
鳳翔台(ほうしょうだい)。
鳳凰が天に向かって
舞い上がる場所という意味。
江戸時代はこの下から舟を出して
遊んでいたそうです。
こんな素晴らしい庭園から
彦根城を眺めていた殿様は
さぞかしいい気分だったことでしょう!
今日の注意!
お城に入城した後、玄宮園に行く際、
黒門出口(逆は入口)から城外へ出ます。
案内には「入場券の提示は不要です」
とは書いてありますが、
実は玄宮園から戻って再入場する場合は
入場券の提示が必要なのです。
ここから出て二度と戻らない人ならば
この表記でも良いですが、
戻る人の事を考えれば
「また、再入場される場合は
入場券の提示が必要になりますので、
失くされないようお気をつけください」
このように書くのが親切でしょうね。
これから彦根城に行かれる方は、
くれぐれもご注意を(笑)
今日の癒し
中堀に佇む首が太い(笑)白鳥に
癒されました。
人に慣れているのか、
僕が至近距離で撮影しても
意に介さず優雅なもの!
しかし僕は白鳥を見る度に、
志村けんの白鳥の首先が股から出た
バレリーナ姿を思い出します(笑)