海東阿蘇神社(熊本県宇城市)

 

竹崎季長ゆかりの神社

海東阿蘇神社を

Wikipediaで調べると

「1289年(正応2年)、

元寇で活躍した海東郷の地頭・

竹崎季長により、藤原氏の末裔である

白石六郎左衛門通泰を迎え、

阿蘇神社の祭神十二柱を勧請し

天下泰平・国家安全を祈願して創建された。

現在まで白石家が管理している。」

さらに白石通泰について、

Wikipediaでは、

「文永の役では、竹崎季長ら主従五騎が

赤坂の戦いに破れた元軍を追って

鳥飼潟まで進出したが、

麁原(そはら)山に陣を敷く元軍もまた

鳥飼潟まで進出してきたため、

これに先駆けを行った季長以下三騎は

負傷するなど危機的状況に陥った。

しかし、後続より肥前国御家人・

白石通泰の手勢百余騎や

同国御家人・福田兼重、筑後勢など

日本軍が到着し、元軍を破った。

そのため、季長らはかろうじて助かったという。

通泰と季長はお互いの戦功の証人になった。」

このように書かれています。

神社があるからこそ、

竹崎季長もここで語り継がれているし、

確かに令和の今においても

竹崎さんと白石さんは、

持ちつ持たれつの関係なのですね。

海東阿蘇神社へ

豊福阿蘇神社から車で10分ほどで、

海東阿蘇神社に到着。

駐車場から社頭を撮影。

ここは肥後、熊本ですが、

肥前鳥居の後期型が建っていて、

裏側の刻印を見ると、

延享二年乙丑(1745年)と

書かれています。

冒頭に書いたように、

ここの宮司さんのご先祖様が

肥前国(佐賀県)の白石さんだし、

現在の佐賀県白石町にも

江戸時代に作られた

多くの肥前鳥居が残っていますから

何らかの関係があるやも知れません。

(あくまでも推測です)

御社殿側から見ると、

いくつもの補修跡があり、

この鳥居を保存する方々の

ご苦労も忍ばれます。

また、熊本地震で倒壊しなかったのは、

江戸時代の職人さんの技術が、

素晴らしかったからでしょう。

石段の参道。

頂上付近の狛犬は、

阿形というよりも、

何となく笑った表情で、

癒やし系ですね(笑)

吽形。

砲弾型?の石碑。

古いご由緒書。

拝殿へ。

拝殿前の狛犬。

吽形。

この後、手水をしたのですが、

手水舎の向かいにある

こちらが気になり、思わず撮影。

ハート型の手水鉢でしょうか・・・。

案内などは見当たりませんので、

妄想ばかりが膨らみます(笑)

白石で縁取りまでしてあり、

恋愛スポットなのかな?

拝殿にて参拝。

やはりここは「竹崎季長」推し。

僕が習った歴史の教科書に載っていた

蒙古襲来絵詞も紹介されています。

カッパが何故ここに?

調べると、カッパのお祭りがあるようです。

拝殿に飾られていた

ポーツマス講和会議の絵。

正面上の小村寿太郎さんが着ている

ブルックスブラザーズ製の

フロックコートの実物を

宮崎総合博物館で見た事を思い出します。

ブルックスブラザーズ、

最近破綻し売却されましたが、

フロックコートは永遠に不滅です(笑)

拝殿右横には、

「蒙古襲来の武将 竹崎季長の地」

こんな幟が立てられています。

確かにこの人が、

「蒙古襲来絵詞」を描かせなかったら、

歴史の教科書の作り手も

少し困ったかも?(笑)

拝殿、幣殿、本殿。

高欄がめぐらされた本殿。

拝殿前でツーショットを撮り、

これにて参拝は完了です。

田の神像

拝殿向かって左側には石像が一体あります。

「藤井幹樹先生」と

書かれていますが、

どなたかは全くわかりません。

そして、

この像の足元で見つけたのがこちらです。

これは間違いなく「田の神」です。

穏やかで、ほのぼのとした

温かみ満載の表情に

ほっこりさせられますね。

間違いなく、

田の神像の秀作と言っていいでしょう。

ただ、田の神と言えば鹿児島県だと

思っていた僕なので、

熊本で見られるとは思いもよらない事。

鹿児島とここは、

何らかの繋がりがあるのかな?

ちなみに、こちらは本場、

鹿児島県歴史史料センター黎明館の

田の神像です。

いつの間には、話は、

竹崎季長さんから田の神に

変わってしまいました(笑)

 

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