亀居城(広島県大竹市)前編
築城ブーム
慶長五年(1600)関ケ原の戦い後、
戦功により新たな領地を貰った諸将たちは、
慶長二十年(1615)大阪夏の陣で
豊臣氏が滅んだその直後、
一国一城令が出るまでの約15年間、
本城とは別に、
他国(藩)との境界近くには、
多くの支城を築いていました。
この15年間が、
「慶長期の築城ブーム」などとも
言われている所以ですね。
毛利輝元が聚楽第を参考に
築城したと言われ、
日本一櫓の数が多い
巨大な広島城に入った福島正則も
築城ブームに乗った一人で、
その一つが、亀居城です。
(ブームに乗った訳じゃなく
必死だったんでしょうが・・笑)
吉川広家の岩国城をはじめ
毛利方に対抗するための
国境の城という訳ですね。
亀居城へ
江戸時代、岩国領だった
小瀬川対岸の瀬田八幡宮から
広島藩の亀居城までは
車で10分ちょっと。
江戸時代の国境を意識しながらのドライブ、
なかなか楽しいものですよ(笑)
もうすぐ亀居城。
現在は「亀居城公園」として
整備されています。
駐車場に到着。
ここから徒歩で、散策開始。
有の丸
駐車場からほど近い郭が「有の丸」です。
いきなり石垣だらけで、
テンション上がりまくり(笑)
有の丸に到着
お城の全域は、
「石本美由起 詩の坂道」として整備され、
各所に石本さんの歌碑が
建っています。
僕達はこの方を存じませんでしたが、
ここに書かれている
細川たかしの「矢切の渡し」、
美空ひばりの「悲しい酒」などの
ヒット曲を見て凄い人だと知りました。
地元、広島県大竹市出身の方で、
「亀居城春秋」という詩も
作られています。
Wikipediaを見てみると
僕達世代なら有名なアニメ、
「いなかっぺ大将」の主題歌も
この人の作品でした。
亀居城の案内。
要約・加筆すると
「関ケ原で家康について戦った
豊臣恩顧の武将、福島正則は、
敗軍の将、毛利輝元の旧領のうち、
芸備二ケ国を与えられ、
広島城を本城とし、
城を置いて守りを固めました。
小方(亀居城のある場所)には
正則の甥、福島伯耆(正宣)を配備し
慶長八年(1603)から築城開始、
5年の歳月をかけ、
慶長十三年(1608)に完成しました。
城の完成一年前に亡くなった
福島伯耆に代わり、
山田小右衛門、森佐助の
両名が入城しました。
海に面したこの城の規模は、
面積十町歩(992アール)
周囲十八町(1.960m)におよび
山頂に本丸・これに二の丸・三の丸など
合計11の郭よりなります。
なおこの城が、亀居城と称されたのは、
城地が亀の伏した形に
似ていた事に由来します。
毛利方への抑えの城と脚光を浴びましたが、
幕府側の福島正則に対する
圧力は厳しく、
完成後間もない慶長十六年(1611)
この城は取り壊される運命となりました。」
このようになります。
福島正則は元和五年(1619)
改易されて所領を没収されていますが、
亀居城を破却させられた時点で、
徳川家康の心は決まっていたのでしょう。
関ケ原の戦い後も何かにつけて
豊臣秀頼に忠誠心を見せる正則が、
後々やっかいな存在になる事を予測し、
機会を見つけて改易するように
息子の秀忠に指示していた気がします。
なしの丸
まずは城の西側から巡る事に。
有の丸のすぐお隣にあるのが、
なしの丸・・・
有りとか無しとか、
何とも面白い郭名ですね(笑)
なしの丸。
案内。
要約すると
「大竹市は昭和47年より、
亀居公園を作るため、
この辺り一帯の整備を進めました。
その際、土に埋もれて隠れていた
亀居城「本丸」の石垣が姿を現しました。
その後の調査の結果、
本丸周辺の10の郭の存在が
明らかになりました。
しかし、地元では11台目の郭
「なしの丸」の存在も伝承されており、
元文5年に描かれた
「小山御城山図」(和田家文書)をもとに
「なしの丸」があったとされるこの場所にも
石柱を設置しました。」
このようになります。
「無し」にされなくて良かった、
「なしの丸」(笑)
ここの石柱は、
まるで日時計のようですね!
ちなみにこの時の時刻は、
10時50分(笑)
なしの丸の端っこに建つ、
石本美由起さんの歌碑、
「柿の木坂の家」。
切り出された石のベンチも素敵です!
松の丸
坂を下りて松の丸へ。
石垣の所々には、
「刻印」が刻まれています。
ほんの一例。
なしの丸下、
登り道の石垣と松の丸入口。
亀居城全体に渡り、
石垣には多くの刻印があり、
その案内板も三箇所に建てられ、
ここは(その3)と書かれています。
案内を書き出すと
「築城工事の際に、
普請のための符牒を、
石に刻み付けたものを、
「石垣石の刻印」と呼んでいます。
亀居城の石垣刻印は、
小さな平山城ながら、
その紋様の種類が多いことが特徴です。
この登り道の石垣だけでも
21種類46個が数えられます。」
このようになります。
松の丸全景。
名古屋丸
松の丸のさらに下に位置するのが、
名古屋丸と呼ばれる郭です。
松の丸から名古屋丸へ。
名古屋丸の石柱。
名古屋丸全景。
枡形などの「折れ」は
ありませんが、
名古屋丸への入口は、
重厚な石垣で固められています。
捨の丸
名古屋丸からさらに下って、捨の丸へ。
石段の通路。
手前が捨の丸、
石段の上側が名古屋丸。
捨の丸。
捨の丸からUターンして、
松の丸まで戻ります。
なしの丸下の道
松の丸へ戻って、
ここからは裏道で、再度「有の丸」へ。
先程見た「詩の坂道」の起点。
碑文を書き出すと
「ある時は 笑顔で登り
ある時は 涙で下り
生きてきた遠い坂道
歳月の 旅に咲かそう
かずかずの 詩の花びら
石本美由起」
このようになります。
お城の坂道を人生の坂道に
掛け合わせているのでしょう。
さすが、詩人ですね!
これが僕達の人生の坂道、
笑いながら登ろう!(笑)
破却された石垣かな?
ここにも刻印を発見!
有の丸に戻り、
三の丸の石垣を撮影。
綺麗に整備されていて、
見応えありますね!
三の丸
次は西側へ。
三の丸下の石垣。
石垣の刻印(その1)
案内を書き出してみると
「城は、「建てる」とは言わずに、
「築く」といいます。
城の威力は建物よりも、
石垣の要害に負うところが大きいからです。
その石垣に、刻印を付けたものが
慶長~寛永
(1603~1642)頃の築城に、
著しく見受けられます。
刻印の目的は種々考えられますが、
亀居城の場合は、
石の出荷を厳しく督励するために
仕事を請けたグループごとに、
目印のマークを
彫りつけさしたものと思われます。
この石垣は、花崗岩で築かれていますが、
山そのものは、堆積岩
(水成岩=玖珂層群)で出来ています。
この石垣のすべての石が、
島や海岸からばくだいな労力で
運び上げられたものです。
亀居城の刻印は、
42種類、264個が発見されており、
このうち広島城の刻印と同型のものが、
21種類もあります。
このことは両城とも福島正則が
普請したという一つのあかしとなります。」
このようになります。
詳しい案内に感服です!
広島城の刻印、
また改めて確認してみよう!(笑)
三の丸石垣の刻印。
坂を登って右側が三の丸です。
三の丸全景。
日時計は、11時20分(笑)
この後、二の丸、本丸、
天守台へと巡ります。(後編へ続く)