亀岡文殊(大聖寺)(山形県)2
説明
造形物などを見学する場合、
それが「何か」を知ることが出来ると、
充実感はより高まります。
亀岡文殊では、
行く先々石像物などに、
多くのものに簡潔な説明があり、
楽しく拝観させていただきました。
参道
仁王門から歩いてきて、
ここからが本格的な
石畳の参道となります。
往時はこの両脇に
僧坊などが
立ち並んでいたのでしょう。
古い石畳、
いいですね〜!
僧坊の跡。
エントランスの標柱には
「福性院」の文字が確認できます。
鐘楼
少し行くと、
再び空が見えてきます。
左側に鐘楼が見えてきました。
シンプルな形だな・・・
そう思いながら
軒下に掲げられた案内を確認。
「永仁の古鐘」
「天正十九年(1591)
伊達政宗公が寄進された
資福寺にあった鐘で、
永仁四年(1296)
右馬二郎藤原正頼の鋳した
名鐘であった。
破損はなはだしく
昭和二十六年鋳造し復元する。」
ここは、
伊達政宗の領地だった時も
あるのでしょう。
復元された鐘。
護摩堂
鐘楼のすぐ先にあるのが護摩堂です。
新し目の建物(多分)。
「出世不動・護摩堂」
鎌倉時代前期作の
木造不動明王立造があると
書かれていますので、
参拝し、
中を覗かせていただきました。
確かに鎮座されていますね!
厳しいお顔の不道明王様をお守りするのが、
両脇の太〜い眉毛の
優しそうなお顔の狛犬というのが、
絶妙な取り合わせです(笑)
そして、
ここで二つほど案内を確認。
ここから亀岡文殊堂まで120m。
やはり「あとどんだけ」があれば
気力も奮い立つというもの(笑)
あり難し!
前編でも書いた通り、
偶然かつラッキーな事に
12年に一度の
秘仏御開帳期間です。
ウサギさんが描かれ、
12年に一度来る「卯年」が、
御開帳の年というのが、
確認できますね。
手水舎
もうすぐ手水舎。
ここから手水舎は見えていますが、
その前に石像物へ。
薬師瑠璃光如来塔。
石中に彫られた石仏。
「学僧 独国和尚」像。
左はこのお寺の開基、
「徳一上人碑」。
徳一上人について、
お寺のサイトには、
「本尊の文殊菩薩は
人皇28代宣化天皇の2年
(約1480余年前)、
震旦国(中国)五台山より伝来、
伊勢国神路山に安置されていました。
この文殊菩薩を第51代平城天皇の
大同2年(約1200余年前)に
徳一上人(奈良東大寺住持)が
勅命でここにお移しなされたものです。」
このように書かれています。
「義民
高梨利右衛門供養塔」
日本各地で伝承される
「村人のために直訴して
死罪になった人」だろうと思い、
Wikipediaで調べると
「米沢藩の重税と苛政に苦しむ
屋代郷の農民を救うため、
寛文6年(1666年)幕府に訴える。
のち元禄元年(1688年)12月
越訴の罪で磔刑となった。
利右衛門はのち義民として語り継がれ、
高畠町立二井宿小学校の校庭内には
利右衛門を祀った碑
(義民高梨利右衛門酬恩碑)がある。」
このように書かれていました。
関ケ原の戦い後、
120万石から30万石に減封されても
あまり家臣を減らさなかったという米沢藩。
その隠れた陰の一面が、
「重税」を課して民を苦しめた事かも
知れません。
「筏舟(がっしゅう)和尚」
案内には、
「越後・草水観音寺住職で、
ここから先に続く十六羅漢とともに
自身の顔に似せ造立したといわれている。」
このように書かれています。
「筏舟」は「いかだぶね」とも読め、
ちょっと面白い名前(失礼!)ですね。
手水舎に到着。
手水舎の軒下には
「洗落・・垢身」の文字。
「垢だらけの体をここで、
綺麗にしてね!」みたいな
意味でしょうか?
「口漱場」の案内。
「参拝の身を清める手水舎で、
「口漱場」と明記されているのは
全国でも珍しい」
なるほど!
聞いたことがないですね「口漱場」。
六角形の石に囲まれた、
丸い井戸型の手水鉢。
これは、
めっちゃ趣あるな〜!
苔とシダの葉も
素敵な演出になっています。
竹筒の覆い、
山水(多分)の滴り具合も完璧!
全身の垢を落とす事は
出来ませんでしたが(笑)
「口漱」を済ませ、
参道をさらに奥へと向かいます。
(続く)