叶神社(東叶神社)本殿
創建にまつわる諸説
浦賀湾の東西に鎮座する二つの叶神社。
鎌倉時代、西岸の叶神社が先に創建され、
東岸の方は江戸時代の元禄期に
浦賀の町割りが東西に変更された際に
できたという説もあるようですが、
東岸の叶神社の案内を読むと
やはりこちらも鎌倉時代初期、
文覚上人の創建と記されていて、
江戸時代説は見当たりませんでした。
ただ、江戸時代まで、
東の叶神社は神仏習合で、
永神寺という
格式高いお寺だったという点から、
町割りが変更された時に、
「東岸に鎮座する叶神社」として、
住民達にクローズアップされ、
その後、
明治維新の神仏分離で、
正式に「神社」として
存続された可能性はありそうです。
いずれにしても歴史ある神社には、
間違いないでしょう。
社頭
渡船場から神社までは、
徒歩で5分ほどの道のりです。

のどかな住宅街。

古い井戸横の案内、あり難し!

あっという間に到着。
鳥居の足元の樹木、
神社さんのセンスでしょうか、
歓迎ムード満点ですね!

鳥居から回れ右すると
浦賀湾の風景が広がっていて、
これはもう、
たまらんですな〜!(笑)
鳥居右奥に建つ、
「日西墨比貿易港之碑」。
以下、全文です。
「慶長3年(1598)、徳川家康は
スペイン(西)領メキシコ(墨)から
新製錬技術を導入するため、
スペイン領マニラ(比)から
メキシコのアカプルコ港へ向かう
スペイン商船(ガレオン船)を
浦賀湊に寄港させるよう交渉した。
そのため慶長5年に上陸した
英人ウイリアム・アダムス
(日本名・三浦按針)を顧問とし、
江戸邸のほか三浦郡逸見村の采地と
浦賀邸を与えた。
三浦按針はマニラにも渡海し
浦賀貿易再開のために尽力した。
江戸・浦賀・静岡・伏見・大阪には
フランシスコ会修道院が創設され、
浦賀洲崎にはスペイン人を保護する
高札が立てられた。
この浦賀貿易を管轄していたのが
船奉行向井将監忠勝である。
浦賀湊には前フィリピン総督
ロドリゴ・デ・ベビロ・イ・アベルサや
メキシコ副王の使節
セバスチャン・ビスカイノが訪れ、
三浦按針建造のブエナ・ベントゥーラ号は
ロドリゴの帰国のために
提供され浦賀を出港し、
幕府船として初めて
太平洋航路横断を果たした。
伊達政宗の遣欧船
サン・ファン・バウティスタ号も
スペイン王国使節
ディエゴ・デ・サンタ・カタリナを乗せ
入港している。
三浦按針の母国との通商成立は
来日から14年目であり、
その3か月後の慶長18年12月
全国にバテレン追放令が公布された。
元和2年(1616)
貿易港は長崎・平戸に限定され、
三浦按針が平戸への移住を
余儀なくされるまで、
浦賀は長崎と並ぶ
東国唯一の国際貿易港として
重要な役割を果たした。
2019年4月吉日 建之」
秀吉が亡くなった後、
関ケ原の戦いの直前の
慶長5年(1600)4月に
リーフデ号が大分県に漂着したからこそ、
家康は豊臣政権の「為政者」として、
ウイリアム・アダムスとも会えたのです。
もし、この2年以上前ならば
秀吉がリーフデ号の処置を
行なったはずですから・・・
ウイリアム・アダムスらの活躍で、
大阪の陣での勝利を決定づけた
「大砲」の調達も出来た事を思えば、
徳川家康の「強運」というのか、
「天命」というのか、
言葉には表せないほどの、
「何か」を改めて感じます。
そしてその呼び水となったのが、
慶長3年(1598)の浦賀湊での
貿易開始という
積極的な行動だったのでしょう。
やはり、天は見ていますね・・・
御社殿
鳥居をくぐり境内へ。

清浄な境内、気持ちいい〜!

「東叶神社」。
以下、案内の抜粋です。
「1181年(養和元年)8月15日、
高雄山神護寺の僧文覚が、
源氏の再興を願って
石清水八幡宮の霊を
迎えたことに始まるといわれ、
その後、源頼朝によって、
その願いが叶(かな)ったことから
叶大明神の名で呼ばれるように
なったと伝えています。
また、このほか新編相模国風土記稿や
皇国地誌残稿などには、
この神社に関する記事が載っています。
神社の裏山を明神山と呼び、
標高は約五十メートルです。
後北条氏の頃、
しばしば房総半島の里見水軍が、
三浦半島に攻撃をしかけてきましたので、
それを防ぐために、
この明神山に水軍を配置しました。
山頂には、この神社の奥宮があり、
その左手に「勝海舟断食の場」の標柱が
立っています。」
平安〜鎌倉時代の頼朝さん、
戦国の後北条氏、
幕末の勝海舟と、
ここは歴史の坩堝ですね!

手水舎。

龍神様からの聖水で禊完了!

社叢(神社の森)は、
神奈川県の天然記念物です。

石段下の案内。

この地図、素晴らしいです!
標高まで記されているし、
実際に歩いてみるとさらに
この地図の完璧さが実感できます。
お陰で迷うこともなく、
この多くを堪能できました。

拝殿へ。

石段の中間に立札があります。

「この蘇轍は源頼朝公
源氏再興の折
伊豆より移植奉納されたものである」
要するに頼朝公お手植えの蘇轍、
みたいなものでしょう!

確かに大きな蘇轍です。
鎌倉時代初期からすると、
樹齢は800年・・・
そういう事なんです(笑)

大きさ比較の為、妻登場。

石段右側にも
同じサイズの蘇轍があります。

拝殿前の赤提灯が、
気分を高揚させてくれます。

拝殿前の狛犬(阿形)

対になる狛犬も阿形。

参拝後、拝殿左横の神輿庫へ

煌びやかで立派です。

ここでツーショット完了。

拝殿を背にした景色、
浦賀湾も見えて気分爽快です!
身代り弁天
参拝後一度石段を降り、
社務所横の見所へ。

「耀真山永勝不動尊の由来」
以下、案内の抜粋です。
「神仏習合時代、
叶神社は別当耀真山永神寺として
横浜の金沢から三浦半島全域において、
本山格の寺格を持った修験道の寺院を兼ね、
歴代の宮司は、同時に真言宗の大僧都、
真言修験の大先達を兼ねていました。
叶神社には、不動尊が現在もお祀りされ、
このお不動様の像は、
耀真山永神寺のご本尊とも
伝えられています。」

身代り弁天。

御祭神は厳島媛命。
弁天様ということで、
宗像三女神の市杵島姫ことでしょう。
御神徳は海上安全、交通安全で、
弁天様が崇敬者の身代りとなって、
守ってくださるそうです。

お手水かと思いきや、
こちらの案内が付いています。

「この流水は、右奥にある
「勝海舟断食修行の折使用の井戸」から
汲み上げている水です。
比叡山延暦寺の高僧より
ご託宣が伝えられ、この流水を硬貨に
掛け流し常に身に着ける事により、
弁天様のお力も相俟って、
開運と金運のご利益が
得られるとされています。」
要するにお金を洗う水ですが、
勝海舟のご利益、
いただくのを忘れました(汗)

弁天様と奥に鎮座されているであろう
耀真山永勝不動尊に参拝。

ちなみにこちらが、
勝海舟断食修行の井戸です。
御朱印
御朱印は手書きなので、
お願いしました。

これは素晴らしい!
達筆ですね!
次に、
西岸の叶神社で授与した御朱印と
並べて撮影してみました。

いやはや、
それぞれの個性がある「叶」の文字、
これは、まさに圧巻!
何でも叶いそうな気分になっています(笑)
(続く)