観泉寺(東京都)今川氏真の墓
プライドを捨てる勇気
織田信長が奇襲によって、
何倍もの兵力を持つ今川義元を
討ち取った桶狭間の戦いは超有名ですが、
その戦の後、今川氏がどうなったかは、
全く有名ではありません(笑)
その後を超簡単に言うと
桶狭間の戦い後、
息子の氏真が後継者となり
その後、今川氏は衰退、
領地も取られ大名としての地位を失くすも
江戸時代には徳川家康の家臣となり、
幕末、明治維新までお家は続いています。
天下人だった豊臣家をはじめ、
「大名」「領主」「名誉」に固執して
滅びた家はいくらでもありますが、
氏真さんの大名家というプライドを捨て、
奥さんの実家である
北条家を頼ったりしながらの
「お家存続作戦」は、
間違いなく大きな勇気を持った行動で、
大成功だったと言えます。
これは、一般人の人生でも、
大いに見習うべきところでしょう。
墓所へ
本堂を参拝後、墓所へ。
墓所の入口は、
この道の突き当たり。
まずは宝篋印塔に参拝。
奥へ。
墓所入口近くには
庭園の滝が流れ、
その音色に癒されます。
水桶たち(笑)
墓所エントランス。
今川氏真の墓
まずは正面の仏像群にご挨拶。
仏像は13体。
偶然ながら、
妻のラッキーナンバーも13(笑)
瑞々しい生花の菊の花が飾られ、
大切にされているのにお喜びなのか、
左の花の前に立つ仏様、
なんとなく微笑まれていますね!
石塀で囲まれた今川氏累代墓。
まだ1月18日というのに、
ここだけ梅の花が咲いています!
墓所内へ。
「今川氏累代墓」
以下、案内です。
「戦国時代、桶狭間の戦いで、
織田信長に敗れた今川義元の子孫は、
江戸時代には高家として幕府に仕えました。
今川家は知行所として
上・下井草、鷺宮、中村などを給され、
幕府の儀式典礼を司り、
将軍の名代として京都への使者や、
日光、伊勢などの代参を勤めました。
義元から三代目となる直房は
この観泉寺を今川家の菩提所とし、
今川氏始祖国氏や義元など
今川一族の供養を行うようになりました。
墓碑が残るのは義元の子氏真以降の
当主や一族出身の女性や子供など
多岐にわたっています。
また、観泉寺は今川氏の
所領支配の中心でもあり、
年貢の徴収や裁判の拠点となっていました。
この周辺の今川という地名も
今川家と観泉寺との
かかわりに因むものです。」
今川氏真さんの功績も去ることながら
徳川家康は短気と言われながらも
その度量の広さが、
天下を制した大きな要因ですが、
幼い頃から人質にされ、
辛酸舐めていたであろう
今川氏への処遇も寛大というか、
恨みを封印できる心の大きさに
感服してしまいます。
全てのお墓について
詳しい説明があるなんて、
これはなかなか出来ないこと、
改めて観泉寺さんの
素晴らしさを感じます。
まずは全員にお参り。
一番右の無縫塔が今川氏真の孫、
高家旗本今川氏初代の今川直房の墓。
右から4番目が今川氏真、
5番目が氏真の妻、早川殿の墓です。
三段の色分けされて供えられた菊の生花。
入口の仏像群同様に、
大切にされている感満載ですね。
今川氏真(右)と妻、早川殿に参拝。
向かって右側の墓に参拝。
向かって左側の墓に参拝。
今川氏墓所の周りにも
本堂前にあったのと同じく
特異な枝ぶりの木々が見えます。
梅の枝なのかも知れませんが、
やはり魔除け的な意味でしょうか(笑)
卒塔婆にもご挨拶して外へ。
梅の花と共に、
今川氏真夫妻の宝篋印塔を撮影し
墓参は完了。
帰路
今川氏のお墓から出てすぐ
「あの雲見て!」
と妻が雄叫びを(笑)
今川氏の家紋に似てるかも?
なんて言っていました。
溜まっていた僕たちは(笑)
墓所入口付近のトイレを利用。
最新型で清潔、
実に快適なトイレライフを
送らせていただきましたとさ(笑)
本堂前にてツーショット。
これにて観泉寺拝観と、
今川氏真さんたちのお墓参りは完了です。