唐沢山城・唐澤山神社(参道)
切り離せない関係
中世山城である唐沢山城は、
江戸時代初期に廃城となり
そのまま250年以上放置され、
その後明治時代初期に入って、
唐澤山神社としてその城域全てが、
神社の境内地となっています。
このような経緯もあり、
お城と神社は切り離せない関係なのです。
ということで、
表題は二つを併記しています。
お城は「唐沢山城」、
神社は案内表記や公式サイトに敬意を表し、
「唐澤山神社」と表記することとしました。
参道(登城路)
道も参道・登城路と併記していますが、
ここから神社本殿までは、
基本「参道」として書くことにします。

秋山川に架かる唐沢橋のたもとから
唐沢山城を望む。
左の高い山かと思っていたら、
右側の少し低い方が、唐沢山でした(笑)

山上近くの駐車場に到着。

「史蹟「唐沢山城」沿革」
以下、全文です。
「唐沢山城は、佐野市の北、
高さ240mの山全体をいい、
往時の広さ550町歩と云われ、
周囲を急崖にかこまれ、
眺望は、関東平野を一望に、
遠く北より日光連山、西に群馬連山、
秩父、南アルプス、秀峰冨士、
東に筑波と、まことに自然の要塞である。
当社御祭神、秀郷公により
一千年前の延長年間築城とされ、
公はこの城を中心に、
天慶の乱を鎮定し大功をたてられ、
その功により鎮守府将軍として、
関東はもとより
奥州方面にまで威勢を張られた。
その後700年間多少の変遷はあったが、
公の子孫佐野家代々の居城として
16世紀中ごろに
現在の形を整えたとされている。
関東七名城の一つに数えられ、
中世山城の典型としての旧態を
よく今に残し、
代々の変遷の跡も見られ
近世初期にまで下る
整備の跡もうかがわれる。
江戸初期、山城禁止令により、
佐野市の城山公園の地に城換となって、
唐沢山城の歴史が終わるが、
明治になり唐沢山神社が
建てられると全面境内地となり、
県立自然公園にも指定され
四季おりおりの風景の中に、
秀郷公以来の歴史が偲ばれる。」
この案内の中で、
「天慶の乱」とあるのは、
いわゆる「平将門の乱」の事ですね。
また、「山城禁止令」なるものには、
初めてお目にかかりましたが、
ネットで調べると、
江戸の周囲の山城は廃城にせよとの
幕府からのお達しがあったそうです。
江戸城を高い所から覗かれるのが、
嫌だったのかな?(笑)

食い違い虎口。
「注意!クマ目撃」の案内あり、
もし遭遇すれば、即The end です(汗)

虎口を通過中。

案内。

虎口の奥には「天狗岩」への石段があり、
頂上からは虎口の様子が
よく見えるようなのですが、
この日の僕は右膝の痛みで、
全く登る気力は無し・・・(残念)

「案内図 ご自由にどうぞ」
ということで、頂きました!

関東最大規模(194h)の国指定史跡と
記されています。
194ヘクタールは、
モナコ公国の面積とほぼ同じなので、
国家級の広さと言えますね!
偶然ですが、
大阪・関西万博に行った時、
妻の勧めで、モナコ公国館に入ったのも
唐沢山城とのご縁に
繋がったのかも知れません(笑)

こちらは案内板の縄張り図です。

おひとり様200円の協力金のお願い。
もちろん二人分入れています(笑)

竜(龍)神宮の案内。
本来ならば本殿の後に、
境内社を参拝するのが普通ですが、
ここは見つけ次第の参拝という事に(笑)

実はこのお社、
帰りがけに参拝したのですが、
行きがけに参拝した体で、
書いています(笑)

案内には瀬田の唐橋で知った、
藤原秀郷の大むかで退治の場面が
書かれていますので、
全文書き出してみます。
「八大龍王神縁起」
「唐沢山の御祭神であらせられます
藤原秀郷公が、
京に架かる瀬田の大橋を渡る時、
橋の中央に息も絶え絶えの大蛇が横たわり、
都の人々は恐れ慄き
只遠巻に見ているだけでしたが、
公は何事もないように
大蛇を跨ぎ橋を渡り終えました。
それを見ていた従者が此の人こそ
真の勇者と公を呼び止め助けを乞いました。
大蛇は百足(むかで)の毒にやられた
龍神様の化身でした。
ぜひ敵を討って欲しいと
公を竜宮城へと招きました。
夜になると黒き山が動き
多くの松明をかざして
こちらに向かってくるのが見え、
よく見ると大きな邪悪な目が
らんらんと輝き、
竜宮城へと襲いかかって来たのは
大百足(おおむかで)の化け物でした。
公は弓矢の名手でしたので三本の鏑矢をとり
一の矢を番え敵の
眉間の中央に的を絞り放ちましたが、
矢はカチンと跳ね返りました。
急いで二の矢を撃ちましたが同じように
跳ね返されてしまいました。
公は最後の三本目の矢を
「神よ御照覧あれ」と矢じりにつばを塗り
全く同じ場所を狙い放ったところ、
矢は眉間より奥深く射貫き
ムカデはどうと崩れ落ち息絶えました。
これ以降龍神様は公の傍らに仕え
数々の瑞象を表し今日に至り
唐澤山に鎮座まします。
龍神様は家族で行動する処から、
家族思いであり、家族愛に溢れ、
敬愛と恋人同士の成就の神様です。
また登竜門と言われるように
入学・入社はもとより出世をかなえます。
秀郷公の弓矢の名人の誉れから
狙った的は外さないことから
本命の恋人の心を射たり、
将来の夢と希望を當的出来る
神様であります。
ここ龍神様と秀郷公の鎮座される
本殿にお参りされ、
二柱の神様のお力を得て
素晴らしい日々をお過ごしください。」
ここで記された
「京に架かる瀬田の大橋」は、
恐らく滋賀県大津市の
瀬田の唐橋のことかと思いますが、
そこの案内で見たムカデ退治の理由は、
「琵琶湖の魚を食べ尽くして困るから」
でした(笑)
伝承というもの、
色んな説があって面白いものですね!

参拝。
ここで妻が、
お社の前を指差して雄叫びを・・
「龍神様、カッコイイ!」

お〜確かに!
めっちゃテンション上がりますよ!

龍王宮のお隣、「大炊の井」
案内には、
「築城のさい厳島大明神に祈請をし
その霊夢により掘ると
水がこんこんと湧き出たとの事である。
深さ九米、直径八米あり
今日まで水がかれたことがない。」
このようにあります。

大炊の井に参拝。
井の中には鯉がたくさんいて、
餌を求めて僕たちに近づいてきます・・
ゴメン!何も持ってない!(笑)

さらに上へ。

左に行けば、「避来矢廟」という
唐澤山神社創建に
尽力した方々を祭る場所があります。
「避来矢」をWikipediaで調べると
以下が書かれています。
「平安時代中期の武将藤原秀郷が
百足退治の礼として龍宮の王から
もらったという伝説のある大鎧の名称。
この鎧を着用していると
飛んでくる矢に当たらなかったという。」
「江戸時代に浅草に保管してあったところ
火災により焼失し、
兜鉢、障子の板、壺板等の
金属部分のみが残った。
出流山千手院という寺院に保管された後、
1869年(明治2年)に
栃木県唐沢山神社に移され、
大鎧初期の形式を現代に
伝えている(国の重要文化財)。」
だから、案内板の上に
スケルトンの甲冑が
描かれているんですね!
凄いものがあるんだ、
唐澤山神社!

明治天皇御製。

空堀に架かる神橋。

欄干左側の空堀。
案内には、
「城の山頂部を東西に大きく分断する
四ツ目堀は重要な防御地点であり、
かつては曳橋がかけられていたとされる。
いざという時には橋を引き払い、
城の中心部への敵の侵入を
防いだと考えられる。」
このように記されています。

右側の空堀。

和合稲荷神社。
参道から参拝。

気分を高揚させてくれる立ち並ぶ奉納幟。

Mrs. GREEN APPLEが大好きな
妻のリクエストで、
GREENの幟を撮影。

舟木一夫って、
あの歌手の舟木一夫かな?
どんなご縁があるんでしょうか、
僕も妻もちょっとビックリです。

英語版の案内もあります。

社務所に到着。

御朱印の種類は豊富で、
基本、書き置きではなく、
御朱印帳に書き入れて
いただけるとのことで、
妻が選んだのがこちらです。

神社の雰囲気にピッタリの
うさぎちゃんの月見姿。
大満足です!
(続く)