瀬田の唐橋(滋賀県大津市)前編

 

瀬田の唐橋の歴史

古代より数々の歴史を見てきた

瀬田の唐橋。

今回初めて歩いて渡ってみました。

東詰の案内板。

「瀬田橋を制するものは

天下を制する」

案内を書き出すと以下になります。

「古代の瀬田橋」

672年 壬申の乱

近江朝廷軍(大友皇子)、

大海人皇子軍に瀬田橋の戦いに敗れる

764年 藤原仲麻呂の乱

仲麻呂軍が近江国府に入るのを防ぐため、

孝謙上皇軍が瀬田橋を焼く。

1988年 唐橋下流80mの川底から

壬申の乱にまで遡ると思われる

橋脚台(基礎)を発見

940年頃

俵藤太伝説

(雲住寺伝承の「俵藤太略縁起」より

藤原秀郷による百足むかで退治

「中世の瀬田橋」

1184年

源範頼・義経軍、瀬田・宇治にて

木曽義仲軍と戦う。

木曽義仲、今井兼平戦死

1221年 承久の乱

後鳥羽上皇が鎌倉幕府と戦う

1582 本能寺の変

瀬田城主山岡景隆が瀬田橋を焼き、

明智光秀の安土城進撃を一時阻止する。

「瀬田の唐橋唐金擬宝珠

水に映るは膳所ぜぜの城」」

最後の歌は「膳所城」が出てますので、

江戸時代の作品でしょう。

出来事の中で、

一番フューチャーされているのは、

「藤原秀郷による百足退治」です。

西詰に建つ案内を超訳すると

「琵琶湖の魚を

食べ尽くしてしまうという

三上山に巻き付いた大ムカデを退治した

藤原秀郷は、

そのお礼に瀬田の唐橋の下の

「竜宮」に招待され、

そこで食べきれないほどの米俵を土産に

帰ったところから

「俵藤太」の名が付いた」

このようになります。

玉手箱は貰っていないようなので、

ある意味ホッとしました(笑)

西詰

西詰を散策。

「瀬田唐橋」。

このネームプレートに

テンション上がります(笑)

全景。

橋の下。

上流側から。

突然、絵になるボートが!

なんと、水位計にも

擬宝珠が付いていますよ!

西詰の小高い丘へ。

内容は不明の石碑。

そして、ここを登ると・・・

何か人物像が見えています。

百足退治をした藤原秀郷さんでしょう。

明治天皇もここに

行幸されていたようです。

瀬田橋を俯瞰。

この後、橋の対岸、東詰へ。

(続く)

 

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