川原隧道(大分県日田市)

 

日本最古の石組みトンネル

「川原隧道(ずいどう)」を知ったのは、

いつもお世話になっている

近世以前の土木・産業遺産

というサイトです。

そのサイトでの川原隧道の紹介文には、

次のように書かれています。

「国内に現存する唯一の

合掌式道路トンネル」

「江戸期のトンネルはもともと

99%以上が水路トンネルで、

道路トンネルはきわめて稀である。

しかも、

水路でも道路でもトンネルは素掘である。

トンネルの側壁を石積壁で補強し、

その上に合掌アーチを組んだ現存例は、

道路では川原隧道、

水路では熊本県の幸野溝の旧貫の

2ヶ所だけであり、

川原隧道の稀少さが分かる。」

大分県には稀に見る

貴重なものが存在しているのです。

行ってみたいと思い続けて、はや半年、

ようやく夢が叶った(笑)

川原隧道訪問です。

川原隧道へ

日田市の中心街から

車で東へ30分ほど走った

天瀬町女子畑(おなごはた)

という地域に目指す川原隧道はあります。

駐車場が無いので、

近くの広場に車を置いて、

そこから歩いて向かいます。

「川原隧道入口」の案内。

まさか、ここからいきなり

昔の石畳道跡に入るなんて、

心の準備が出来ていませんでした(笑)

所々に石畳の「石」も残っていますね。

さらに行くと石畳が良く分かります。

石畳道両脇の石垣も

かなり見応えありますね。

石畳道のアップ写真。

そして、

川原隧道入口から歩くこと約5分、

遂に川原隧道が見えて来ました。

お〜!これか~!

入口周辺は石垣で、

ガッチリ固めてあります。

「川原隧道と石畳」の石碑。

立ち入り禁止になっていますが、

熊本地震にも耐えた川原隧道は、

匠の技としか言いようがありません。

そして、この隧道の成り立ちについて、

「近世以前の土木・産業遺産」には

次のように書かれています。

「西国筋郡代・塩谷大四郎正義の

命による日田往還改修に伴い

築造された江戸期では稀な道路トンネル

(トンネル化による距離短縮が目的)

開削時期を文政年間としたのは、

この時期に塩谷大四郎正義が

日田往還の改修を行ったとされているため

工事には豆田町の豪商・廣瀬久兵衛が協力」

塩谷大四郎正義と言えば、

永山城跡の月隈公園の

陰徳倉碑を作らせた人物ですね。

塩谷大四郎正義の肖像画と

金持ちが米を寄付してくれた事を

記して讃えた、陰徳倉碑の説明。

塩谷大四郎正義、

ここでもグッジョブだったのか~!(笑)

入口右側の石柱には、

「嘉永七年甲寅

切抜之内甃寄附 広瀬久兵衛

八月吉日 豆田町 」

このように刻印があり、

塩谷大四郎正義の命で文政年間

(1818年~1830年)に

掘られた素掘りのトンネルに

現存する合掌アーチを組んで

完成させたのが、

1854年とされています。

内部を撮影。

これが江戸時代に作られたと思うと、

ただただ感服するばかりです。

縦位置でも撮影。

本当に来て良かった・・・

旅の最後は、

やっぱり疲れるけれど(笑)

満足して、帰途につきます。

帰りがけに気付いたのですが、

石畳道から分岐する道の石垣も

残っていますね。

石畳道からの景色。

江戸時代、川原隧道を通って、

ようやくここに至った人々が見たのは、

同じような山や空や田んぼ

だったのでしょう・・・。

トンネル今昔

川原隧道がある同じ山の下には、

JR久大本線の川原トンネルがあります。

広場に停めた車に乗り込む寸前、

ラッキーな事に、たまたま来たのが

特急、「ゆふいんの森」号。

川原隧道の真下、

川原トンネルに入る寸前の

特急「ゆふいんの森」号。

(トンネルは右側にあります)

川原隧道を利用していた

江戸時代の人が見たら

何を思うのかな?(笑)

 

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