川中島古戦場(長野県長野市)

 

川中島の戦い

武田信玄と上杉謙信の

川中島の戦いについて、

「川中島古戦場八幡原」の案内板では

次のような説明がされています。

(一部省略と加筆あり)

「川中島合戦は今から四百年前、

天文二十二年(1553)より

永禄四年(1561)に至る

十三年の永きに亘って行われたが、

後世に広く伝えられている川中島合戦は、

永禄四年の戦いを指している。

(第四次川中島の戦い)

この戦は武田勢は八幡原に、

上杉勢は妻女山に陣をとり、

両軍併せて三万三千余、九月十日未明

信玄の「鶴翼」の配備と

謙信の「車懸」の攻撃(波状攻撃)で、

ここ八幡原は修羅場と化した。

その中にあって謙信は

只一騎愛刀「小豆長光」を振りかざし

武田の本陣に切り込み

不意を突かれた信玄は

軍配で謙信の太刀を受けたという有名な

「三太刀、七太刀」も此の処である。

時に信玄四十一才、謙信三十二才であった。

ここ八幡原に現存する土盛りの跡は、

武田本陣枡形陣地で

当時の一部を物語っている。」

ここには、書かれていませんが、

Wikipediaによると

永禄七年、双方にらみ合いで終わった

第五次川中島の戦い(戦わず?)

もあったようです。

八幡社

武田本陣跡の八幡原は、

八幡社という神社境内となっています。

小雨の中、陣跡(境内)へ。

武田信玄と上杉謙信の一騎討ちが

本当にあったか否かはさておき、

とにかく「ここ」を楽しみます。

唐破風付きの両部鳥居。

笠木と島木のバランスがよく、

なかなか渋くていいじゃないですか~!

冒頭に書いた案内板。

川中島大合戦図。

赤が武田、青が上杉で示してあり、

現在位置(八幡原)が、

合戦図の左下ということからも

信玄が謙信に

攻め込まれているのがよくわかります。

手水舎。

そして、この後不思議なことが。

雨は降り続いているのに、

強い日差しが差してきたのです!

天気雨と言えばそれまでですが、

やはり神様と武田信玄、上杉謙信の

歓迎としか思えません!

日差しは僕たちが八幡原にいるあいだ

ずっと差してくれていました。

拝殿の手前に小さなお社があり、

その横に「八幡社御由緒」が

紹介されています。

御由緒を超訳すると、

「平安中期、源顕清(あききよ)が

信濃の国に流された時、この地を訪れ

武運長久を祈り、八幡大神を

御神木の大欅に包まれる

鞘堂内の御神殿に祀られたことから、

この広原一帯を八幡原と名づけました。

川中島合戦で破壊された神殿を信玄は、

高坂弾正に命じて社殿を再建させ、

その後、松代藩真田家が

明治維新まで代々祭祀、

修繕の管理運営をされました。」

このようになります。

「御神木の大欅に包まれる

鞘堂内の御神殿に祀られた」

この文章通り、大欅も鞘堂もありますね!

主幹は折れているものの、

見た目、大欅の樹齢は、

500~700年位でしょうか。

とすれば、

川中島合戦の時にもあったはず。

信玄も謙信もこの木を見たのかも!

鞘堂内には杮葺きの

御神殿もあります。

信玄が再興したものかな?

いや、真田氏が作り直したのでしょうか?

それとももっと後か・・・

まあ、どちらにしても

古くて見応えありますね。

こちらは鞘堂の先に配置された拝殿。

拝殿斜めから撮影。

左が本殿、右が拝殿。

「執念の石」

案内を超訳すると

「作戦の失敗で攻め込まれ

身辺が手薄となった信玄に

切り込む謙信に対して、

武田の家臣原大隅は、

信玄の持槍「青貝の長柄」で

突こうとして失敗し、

謙信を取り逃がし、無念やる方ない

原大隅は、傍にあったこの石を

槍で突き刺したと言われる。」

このようになります。

三太刀、七太刀之跡。

案内を超訳すると、

「武田本陣が手薄になった時、

謙信は旗本数騎を連れ、

信玄の本陣を強襲、

信玄めがけて謙信は馬上より流星一閃、

信玄は軍配で受け止めたが、

続く二の太刀で腕を、

三の太刀で肩に傷を負った。

この後、軍配を調べさせたところ

刀の跡が七箇所もあったと言われ

この一騎打ちの跡を世に

三太刀七太刀跡という。」

このようになります。

その時信玄が手にしていた軍配が、

実際にあれば見てみたいものですね!

信玄・謙信一騎打ちの像

八幡原でのハイライト。

これを見ないと帰れませんから(笑)

左手前が像、

その向こうに八幡社が見えています。

長野市の史跡ガイドによれば、

昭和44年の大河ドラマ、

「天と地と」を記念し建立されたそうです。

手前が武田信玄、

顔が見えるのが上杉謙信。

上杉謙信の

「毘」と「龍」の旗について。

「毘」の旗は、

常に毘沙門天と共に戦い、

その加護のもとにあるという意味で、

龍の旗は、突撃を命じる時に使う、

「突撃用軍旗」であるという事が

書かれています。

武田信玄。

ちょっと緊張しながらも

泰然としたお顔ですね。

風林火山の旗について。

「孫子(そんし)」の一節からの言葉。

これは有名なので、

意味は割愛します(笑)

その他の石碑

次は首塚へ。

首塚の背後には強烈な太陽光。

案内によれば、

「以前は屍塚と呼ばれ、

戦いの後、武田方の海津城主

高坂弾正が、敵味方区別なく

遺体を葬った塚の一つである。

これを知った上杉謙信は大変感激し、

後に塩不足に悩む武田氏に対し、

「われ信玄と戦うもそれは弓矢であり、

魚塩にあらず」と直ちに塩を送り、

この恩に報いたと言われている。

このことが

乱世に咲いた美学と褒め称えられ、

「敵に塩を送る」という

言葉が生まれたと言われる」

このように書かれています。

へ~そうだったのか~

「敵に塩を送る」って(笑)

諸説あるにしても、

高坂弾正さんの弔いの気持ち、

ひしひしと伝わって来ます。

川中島合戦をしのぶ

田中月亀翁父子の歌碑。

記念撮影は、一騎打ちの前。

これにて

川中島古戦場跡の散策は完了です。

今日の雨と青空

駐車場に戻ると

こんな空が広がっていました。

濡れた路面の青空のコントラストが

何ともいい感じで、

最後まで不思議な天気の

川中島古戦場跡でした。

 

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