基肄城(きいじょう)(佐賀県基山町)後編
1350年間現役の水門
人間なら社会人としての現役は
長くて50年ほど。
その人間がいったい何世代交代したか
わからないほど長い間
現役を続けているのが
基肄城の南側にある石造りの水門です。
もちろんここが、
基肄城散策のクライマックス。
長時間、山中をうろついて、
やっとたどり着いた僕たちは、
その疲れも吹っ飛ぶほど
・・・いや疲れは足にありますが(笑)
感動させてもらいました。
南水門
山頂から森に入ってから約2時間、
ようやく外界が見えて来ました(笑)
広域と水門の案内板。
この木々の向こうはもう水門です。
水門の案内。
水門の石垣が見えてきます。
まずは水門右横に鎮座する神社に参拝。
鳥居は、慶応三年の奉納ですので、
江戸時代末期には、すでにこの神社は
建立されていたと推定出来ます。
アップ写真を取り忘れましたが、
両脇の狛犬、口紅を塗ったように
口だけが赤いのが目を引きます(笑)
鳥居の神額には「住吉宮」とあるので、
海(水)の神様、住吉三神が
祭られているのでしょう。
水門と石垣。
素晴らしいものが遺されていますね!
この水門、1350年間も休まず
働き続けています(笑)
「水門址」の石柱と水門アップ。
もっと近寄って撮影。
よくぞ1350年も崩壊もせず
残ったものです。
覗いてみると向こう側が見えます。
「大宝律令の筑紫城衛禁律によると
この水門を潜って場内に入ったものは
一年の徒刑(ずけい)に
処せられることになっていた」
このように案内に書いてありました。
確かにここを通れば城内に入れますね!
しかし向こう側には番兵がいるはず・・・
すぐに捕まり徒刑(懲役)です(汗)
水門に興奮してツーショット(笑)
水門の奥から神社方向を撮影。
石垣の修理についての説明は、
色分けされていて、
実に分かりやすいものです。
これぞ国指定特別史跡ですね!
これからすると水門の周囲は、
全く崩れていなかった事が分かります。
1350年前の百済人の技術が
いかに卓越したものだったのか、
この一つで知ることが出来ますね。
修復の必要が無かった石垣。
石垣の裏側、お城内部の石垣。
石垣全体を動画でも撮影。
この後、再度城内に入り、
また山を登って途中を散策し、
頂上を目指します。
水門横には水汲み場があります。
やはりここは古代から
ずっと水が豊富だったのですね。
水門のすぐ裏側にはこんな石垣が。
恐らく戦国時代前後のものでしょうが、
以前はお寺でもあったようです。
奥までは立ち入りが出来ないのですが、
この石橋を渡ることは可能です。
猿田彦大神とともに
ここを守っているのは
見ざる言わざる聞かざるの三猿。
神仏習合の名残にも
感じますが、案内は無いので、
寺ということにしておきます。
この両脇にある山全体がお城なので、
やはり巨大です。
僕たちは真ん中の「現在地」から
川伝いに登り、大杉谷を通り、
丸尾礎石群を見て、
基肄城の石碑があった山頂を目指します。
ここからまた森に入ります。
丸尾礎石群。
建物の跡ですが、
何があったのかは不明です。
動画も撮影。
林道を歩いて、山頂へ・・・
やっとたどり着いた~~!
今日、二度目の山頂(笑)
登っておりて、登っておりて、
そして、またここに登って来た。
よくぞ体力が持ったものです(笑)
あまりの喜びに山頂の景色とともに撮影!
この後はまた山をおり、駐車場に向かうと
立派な石碑に遭遇。
「日本最初の植林地 基山」
日本書紀に書かれている
五十猛神が植えた「筑紫」とは
基山のことだそうです。
ちなみに五十猛神は
ヤマタノオロチを退治した
スサノオの子供で
林業の神様として祭られる神様です。
大きな石碑もあり、間違いなくここが、
植林発祥の地ということが分かりますね。
これで、約4時間かけて巡った
基肄城と木山城の散策は完了です。
基肄城の復興を願って
最後に、今年(2018年)7月の
豪雨で、大きな被害を受けた基肄城は、
そのほとんどが立ち入り禁止になっており、
このブログに書いている
僕たちが昨年巡った場所の多くは、
復旧までに長くて数年かかるとの事。
僕は何も手助けは出来ませんが、
ただただ、早期の復興を願うばかりです。