菊池神社(熊本県菊池市)後編

 

菊池十八外城

菊池神社の一角に

明治三十四年に建立された

古い石碑があります。

「菊池十八外城」と刻まれ、

菊池神社が鎮座する

本城(雲上守山城)と、

その周囲を囲む十八の城が

記されています。

Wikipediaによると

「菊池郡全体をひとつの城と考え、

小規模な城塞を密集して

四方の要地に築城して

守備を固めたものである。」

このように書かれています。

江戸時代、薩摩藩の島津氏が、

領内に120箇所ほど造った

「麓」と呼ばれる「外城制度」の

思想に通じるものが

あったのかも知れませんね。

御社殿

参道脇の神社を参拝後、

さらの山を登って本社を目指します。

石段。

神門。

拝殿前の広場。

拝殿。

案内には以下のように

書かれています。

「菊池氏12代武時、13代武重、

15代武光が主祭神として祀られ、

16代武政以下一族26名が

配祀されています。」

菊池神社は、

後醍醐天皇が御祭神の

吉野神宮(奈良県)をはじめとする

「建武中興十五社」のひとつ。

よって、

ここでも後醍醐天皇の

建武の中興(新政)に

貢献した三柱が主祭神となっています。

参拝。

本殿に参拝。

本殿横に鎮座する

猿田彦大神さんにも

ここに導いてくださった事を

感謝しつつ、ご挨拶。

拝殿前にてツーショット完了。

境内社など

まずは、

本殿右隣に鎮座する

城山神社からスタート。

参拝。

案内によれば、

「御祭神は二柱。

文永・弘安の元寇を撃退した

菊池氏十代、菊池武房公と

戦国争乱の時代に儒教を導入し

肥後文教の淵源をなした菊池重朝公」

このようになります。

裏門から

本殿境内の外へ。

ここには、境内社の他、

二つの「像」があります。

菊池武時銅像。

この像は個人の方が寄贈されていて、

その柱には、

武時さんの功績が

刻まれています。

「公は菊池氏十二代の当主である

後醍醐天皇の勅命を奉じ

一族を率い

博多の九州探題北條英時を攻め

元弘三年三月十三日

壮烈な討死を遂げ

建武新政のさきがけとなられた」

Wikipediaには、

論功行賞の席において、

「勅命に応え、討死した菊池武時こそ

一番の殊勲者である」

そう楠木正成が、言ったことで、

武時の嫡男、武重に

肥後一国が与えられたと書かれています。

やはり武時さんは、

主祭神に相応しい方である事が、

良く分かりますね。

素朴で、温かみのある銅像。

愛らしい馬のお顔に

癒やされますね!

後方から。

菊池武時さんのすぐ右隣には、

玉垣に囲まれた軍人姿の

上半身像があります。

松尾敬宇中佐像。

「軍神松尾敬宇中佐」

案内を抜粋・要約・補足すると

以下になります。

「松尾敬宇中佐は大正六年七月、

山鹿市三玉に生まれ、

海軍兵学校を卒業、

大東亜(太平洋)戦争において、

昭和十七年五月三十一日、

特殊潜航艇に乗じ、

豪州シドニー湾に潜航突撃、

赫々たる戦果をあげ国難に殉じました。

敵将グルート提督は、

その豪勇を嘆賞して、

海軍葬をもって之を葬り、

その勇敢と殉国の尊さを

同国民に訴えました。

(遺骨は戦時交換船により

日本に帰国、

両親に手渡されています)」

「中佐は生前深く菊池神社を崇敬し、

菊池氏の精忠を景仰し

決死の出撃にあたっては、

菊池神社のお守りと

菊池氏ゆかりの千本槍を携え

散華されたのであります。」

「この像は中佐の母堂まつ枝刀自が

豪州政府の厚遇に答礼のため

訪豪されるに当り

これを支援した人々と

中佐の偉業を偲ぶ人々の特志よって

建てられたものです。」

これに続き、

両親の歌碑が刻まれています。

特殊潜航艇は、

特攻とは定義されていないものの

ほぼ特攻に等しい任務。

勿論、無事帰還出来た登乗員は、

ほぼ皆無ですから

遺骨が両親の元に戻っただけでも

奇蹟的な出来事でしょう・・・

稲荷神社・生目神社の参道。

案内には、

稲荷神社は、

京都伏見稲荷大社からの勧請、

生目神社は、宮崎の

生目八幡宮からの勧請と

書かれています。

参拝。

本殿。

末社に参拝。

これにて

菊池神社の参拝は完了です。

 

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