北山稲荷神社(平将門公戦歿之地)

魂が宿っている?
北山稲荷神社への参拝の理由は、
そこが天慶三年(940)に討ち死にした
平将門終焉の比定地だった事を
後押しされるような
平安時代・長元四年(1031)の板碑が
見つかった場所だからです。
昭和五十年(1975)に発見された板碑、
944年もの間、
土の中で眠っていたわけですが、
2025年の現在からすれば、
なんと千年近く前になるんですね!
福岡県志賀島で発見された金印や
宮城県の多賀城碑など、
長い時を超えて
偶然見つかるものには、
「見つけて欲しい!」という
魂のようなものが
モノ自体に宿っているのでしょう・・
偶然という言葉だけでは、
推し量れない人智を超えた何かを
感じてしまいます・・・
参道
平将門公戦歿之地は、
下記のような場所です。
場所としては、
繁華街と隣り合わせの森の端っこです。
Googleマップの案内で迷った僕は、
「はま寿司」あたりから森を見て、
あれだ!
そう感じて行ってみると大正解でした(笑)
参道入口。
YouTubeで知ったのですが、
ここは数年前までは藪が生い茂り
一般者には入りづらいところでしたが、
それをたった一人で整備され、
今のようになったというのです。
もちろん
奇特なこの方にお会いする事もなく
参拝を終えましたが、
ただただ感謝しかありません・・・
「平将門公戦歿之地
辺田北山
正一位北山稲荷大明神」
「参拝者の方へ
場内整備は奉仕活動で実施しています
御参拝に心より感謝申し上げます
皆様のご健康と安全をお祈り致します
御賽銭は慈善活動への
取り組みに寄付いたします」
この案内一つを読んでも、
開墾者の方の将門公への思いが
ひしひしと伝わりますね!
左右に石柱が見えています。
社号標。
「平将門公戦歿之地 辺田北山」の碑。
裏側。
「古来吾等の祖先より伝承あり
なお源頼信公の立てられた
将門公供養の板碑が此度出土せるにより
顕彰のため浄財を仰ぎ之を建つ
昭和五十一年二月十四日
平将門辺田北山遺跡保持会」
将門公の命日である二月十四日に
この碑は建立されています。
バレンタインデーなので、
覚えやすい命日です(笑)
ちなみに
板碑を建立した源頼信の嫡男は、
前九年の役(合戦)で活躍した
源頼義で、その子が義家、
その子孫は、
鎌倉幕府を作った源頼朝で、
後に鎌倉幕府を乗っ取った北条氏は、
坂東平氏の流れという、
源氏と平氏、
時代の変遷とは実に面白いものですね。
本殿
そして本殿に到着。
大切にされている感満載で、
人情がダイレクトに伝わってくる
素晴らしい境内です。
御参拝記録帳に記入。
参拝。
「北山稲荷神社」
「天慶3年(940年)2月14日。
新星を名乗り、
関東一円を支配下に置いた
平将門が討ち死にする。
藤原秀郷・平貞盛の軍勢と合戦中、
誰が放ったか判らない矢が額
(或いはこめかみ)に当たり
落命したという。
この将門最後の地となるのが
北山古戦場である。
この古戦場の有力な比定地が
北山稲荷神社である。
すぐそばを幹線道路が走り、
24時間営業のコンビニエンスストアが
隣接しているにもかかわらず、
神社の中は手入れされていない
草木が伸び放題となっていて、
全く時空から隔絶されたかのような
印象がある。ある種の【魔所】である。
この稲荷神社が将門最後の地と
考えられるようになったのは、
昭和50年(1975年)に
この場所から1枚の板碑が
発見されたためである。
この板碑には平将門の命日が刻まれており、
さらにそれを供養したのが
長元4年(1031)、
源頼信であることが記されていたのである。
長元4年は、平将門の乱以降で
最も激しい内戦が
関東で繰り広げられた平忠常の乱を、
頼信が鎮圧した年であり、
信憑性はそれなりに
考えられるところである。
(参考資料:厚く御礼申し上げます)
御参拝者の御健康・御繁栄を祈願致します」
以前の姿がここで理解できます・・
板碑が発見された後、
長い間人々から
忘れられていたのでしょうか・・
でも今はこうして整備され
僕たちも参拝できた事、
有難い限りです・・
板碑出土の処
板碑の見つかった場所は、
本殿の真裏になります。
石碑へ。
やはり将門公の魂は
ここにあったのかも知れません。
板碑のレプリカ(左)と
鎮魂碑(右)に参拝。
石柱に陽刻された板碑のレプリカ。
裏面を確認。
「昭和五十年八月二十九日發掘
昭和五十一年二月十四日復刻
雨引山楽法寺山主権大僧正
川田聖定 謹書」
このように記されています。
鎮魂碑の裏面。
「長元三年(1030)九月
甲斐守源頼信公は、
両総を地盤として起した
平忠常の反乱鎮定のため、
時の関白頼道の命を受け
総土に遠征されたが
同四年忠常は戦はずして降伏し
ここに長元の乱は平定した。
依って頼信公は北山合戦に武運拙く
戦死された将門公の菩提を弔うため、
辺田北山の此の地に
将門禅門鎮魂の板碑を立て、供養された。
その板碑が昭和五十年八月廿九日
奇しくも吾が家の手により発見されたが、
これまさに将門公の霊の然らしむる処か。
依って其の縁故に因み、
かねてより将門公終焉の地、
辺田北山説の提唱者石山寛信氏と計り、
茲に 平将門公鎮魂之碑を
建立するものである。
昭和五十年十一月」
最後はここでツーショット。
これにて参拝完了です。