源頼朝の墓(鎌倉市)

 

頼朝はお墓から何を見た?

鎌倉はコンパクトな街。

徒歩で巡れる範囲が多く、

その分、それぞれの位置関係が

よく頭に入ってきます。

源頼朝の墓がある法華寺跡は、

鶴岡八幡宮の北東、

頼朝さんが政務をとった

大蔵幕府を俯瞰する位置で、

ここに墓が建てられたのは、

嫡男、頼家が引き継いだ

幕府の行く末を

高い場所から見守っていて欲しいという

妻、政子達の願いも

込められていたからでしょう。

結果的に、頼朝さんは、

お墓の中から、頼家の失脚や、

その後、幾度となく行われた

血生臭い殺し合いを

嫌というほど見る羽目になったのですが、

肉体を離れ、

煩悩がなくなった頼朝さんの魂は、

「それも人の世の摂理」と

達観していたのかも知れませんね。

小学生との再会

厳密に言えば、

「小学生が作成した案内に再会」です。

大蔵幕府跡の散策では、

大いにお世話になった

児童達が書いた案内は、

ここにもありました。

源頼朝の墓についての案内。

これも僕の心をわしづかみ(笑)

頼朝こぼれ話には、

「お墓への石段の数は、

頼朝が亡くなった年齢53才と同じ、

53段になっている。」

こう書かれています。

こだわっているんですね!

数えなかったけど・・・(笑)

左下には、

大蔵幕府跡での「鎌倉クイズ」の

回答が掲示されています。

「クイズ弐」の問題は、

「精進料理のけんちん汁は、

豚肉の代わりに何を入れたでしょう?」

回答は・・・・「油あげ」

これに続き、

「けんちん汁の由来は、

「建長寺汁」がなまって

「けんちん汁」になった」

こんな素晴らしい解説が!

思わず唸ってしまいますね。

けんちょう~けんちん・・納得です。

もう一つ、

クイズ参の問題、

鎌倉大仏が立つと何メートルの高さ?

回答は・・・「24m」

続いて、

「歩幅で計算すると鎌倉から東京まで

1時間で歩けるそう。

時速約80Kmなので、

横須賀線と同じくらいか?」

いや~これは面白い!

単なる「電車」ではなく「横須賀線」と

言い切っているのが秀逸ですよ!

もはや頼朝さんのお墓よりも?

小学生にぞっこんです(笑)

石碑

頼朝さんのお墓の入口付近には、

いくつかの石碑が建っています。

大正時代に青年団が建てた石碑。

「法華堂跡」

現代文で要約すると

以下になります。

「元は頼朝の持仏を祀る所で、

頼朝が亡くなってからは、

廟(墓)となった。

建保五年、和田義盛謀反の時、

三代将軍実朝が逃れた場所でもある。

また、宝治元年、三浦泰村が立て籠もり、

一族郎党ともに滅びた場所でもある。」

頼朝公顕彰碑。

こちらは頼朝の墓の横にある

島津氏の祖、

島津忠久の慰霊塔への道案内。

白旗神社

お墓の石段下に鎮座するのが

白旗神社です。

「由緒記」

要約すると、

「ここは持仏堂があり

頼朝がもとどりの中に納めて戦ったという

小さな観音像が安置されており、

頼朝が亡くなるとここに葬り、

法華堂と呼ばれた。

その後、鶴岡八幡宮の僧が、

祭祀を続け、明治維新に際し、

寺は白旗神社と改められ、

頼朝公を御祭神として今日に至る」

このようになります。

境内へ。

参拝。

白旗明神の神額。

源頼朝の墓へ

神様になった頼朝さんに参拝後、

石段を上りお墓へ。

案内。

この最後には、

「現在建っている塔は、

後に島津藩主・島津重豪しげひで

整備したものとされます。」

このように記されています。

53段の石段(多分・・笑)

源頼朝法華堂跡の石碑。

法華堂跡の石碑と案内。

頼朝はここですが、

北条義時の法華堂は、

お隣ながらも

一旦石段をおりて、

別階段から上るようになっていますので、

ここはあくまでも

「頼朝の法華堂」でしょう(笑)

源頼朝の墓。

お墓の左手前の石碑。

このお墓を建てた、

頼朝の子孫である

島津重豪さんの名前と、

建立された

「安永八年己亥二月」が

刻まれています。

(西暦1779)

「承

薩州候之命東都龍湖

親和八十歳謹書」

有名な書家だった人なんでしょうか?

参拝。

お墓の背後からも撮影。

頼朝さんの背中が見えたような・・(笑)

こちらは頼朝の墓近くに建つ

頼朝の落胤ともいわれる

島津の祖、島津忠久公の碑。

島津さんの権威を

ここに示したかったという意味も

含んでの「頼朝の墓再建」だったかも?

こちらも安永八年の建立です。

もう一人の兄弟

頼朝の兄弟といえば、

異母兄弟の

義経や範頼が有名ですが、

頼朝のお墓近くには、

同じ父母の下に生まれた

もうひとりの「弟」の存在が

紹介されています。

「希義公の土と石」

案内を要約すると

「平時の乱の時、頼朝は13才、

弟は3才だったが、

同じ父母を持つ二人の兄弟は、

その後、一度も再会していない。

兄弟の悲哀を想い

今日互いの墓所の土と石を交換し

八三五年の時を経て

兄弟を再会させたものです。」

このように書かれています。

希義公の墓は高知県にあるようで、

そちらには、

ここの土と石があるのでしょう。

・・・と書いて、

最後に残念なお知らせが・・・

土と石を撮るの忘れた~(笑)

 

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