國王神社(茨城県坂東市)

癒しの空間
國王神社で感じたのは、
御祭神、平将門に対する
地元の方々の「将門愛」です。
境内には宮司さんなどもいなく
全くの無人なのですが、
境内の清掃管理、
社殿の美しさ、参拝者への配慮など、
そこには「人の暖かみ」が感じられます。
将門さんの「武勇」はさる事ながら
民に対する「優しさ」を
象徴しているかのようで、
地元愛に包まれた
國王神社の心地よい空間は、
僕たちを大いに癒してくれたのです。
参道
本殿横の広い駐車場に車を停め、
一旦社頭へと向かいます。
社頭。
案内を書き出すと
以下になります。
「御祭神は平将門公である。
将門公は平安時代の中期、
この地方を本拠として関東一円を平定し、
剛勇の武将として知られた
平家の一族である。
天慶三年(940)二月、
平貞盛、藤原秀郷の連合軍と北山で激戦中、
流れ矢にあたり、
三十八才の若さで戦死したと伝えられる。
その後、長い間叛臣の汚名をきせられたが、
地方民の崇敬の気持ちは変わらなかった。
本社が長く地方民に侵攻されてきたのも、
その表れの一つであろう。
本社に秘蔵されている将門公の木像は
将門公の三女如蔵尼が
刻んだという伝説があるが、
神像として珍しく、本殿とともに
茨城県文化財に指定されている。」
Wikipediaには、
「平将門の戦死の際、
難を逃れ奥州の恵日寺付近に庵を結び
出家し隠棲していた将門の三女如蔵尼が、
将門の33回忌にあたる
天禄3年(972年)2月にこの地に戻り、
付近の山林にて霊木を得て、
将門の像を刻み、
祠を建て安置し祀ったのが
はじまりとされる。」
このように記されています。
参道入口。
社号標。
木製の両部鳥居。
参道脇の幟が
少し強い風にはためいて、
それがなんとも心地よく、
思わずその音を聞いていました・・
思い出を残す為、動画でも撮影。
拝殿・本殿
そして拝殿へ。
幟がなければ、
まるでここは江戸時代・・
茅葺の拝殿が素晴らしい!
御社殿は、
昨年(令和6年)秋に
屋根を葺き替えが完了したようで、
全くの偶然ですが、
訪問のタイミングも完璧ですね。
拝殿内の國王大神の神額と
富士山&龍神様の奉納額。
将門公木像の写真。
実物は見ることができないので、
この写真があってヨカッタ!
これも良い!
総毛立ちで、目を剥いた将門さん、
その眼差しの奥には、
果てしない優しさが感じられます・・
ちょっと俳優の小澤征悦さんに
似ているかも?(笑)
お隣の書道額に
「神倭伊波禮比古」とあるので、
最初はこの絵は神武天皇なのかと
思ってしまいましたが、
全く別の奉納ですね。
拝殿前の御朱印エトセトラ。
ここで僕たちの心を掴んだのは、
こちらです・・
文鎮代わりのワンちゃん!!
思わずニッコリしてしまいます。
書き置きの御朱印を授与いただき、
ワンちゃんの温もりが残る?
御朱印袋にイン!
記帳も完了し本殿へ。
文化十四年(1817)再建の拝殿と本殿。
真横から。
左から拝殿、幣殿。本殿。
頂上に九曜紋があしらわれた
美しい茅葺き屋根、たまらんですな〜!
本殿後方から。
石碑など
夕方が迫る中、
この後は将門さんの胴塚などにも
お参りする予定にしていたため、
境内社などは全部カットし、
(神様、ごめんちゃい!)
拝殿前の石碑と気になる木へ(笑)
平将門公追慕之碑。
前半は神社建立の経緯で、
前述した内容と重なるので、
後半を抜粋します。
「将門の真意は窮乏のどん底にあった
庶民を救わんが為に
藤原摂関政治の姿勢を
たださんがためであった
故に その死後 関東の各地に
彼を追慕する空気が膨湃として
たかまった
明治以降
歴史の研究が自由になされるに及び
彼の真意がわかり公然と
彼の徳をたたえることさえ
見られるにいたった」
基本、中央の政治(家)は、
自分たちの利益が主で、
庶民を慮ることなどほぼないのが、
普遍的なやり方、
それに真っ向勝負した将門さんには、
敬意しかありません・・
明治四十五年二月建立の石碑。
ここが将門さん終焉の地である事と、
幾つもの将門さんを祭る神社が
記されているようです。
石碑横の御神木。
枯れそうで、枯れない、
妻好みの老木を思わず撮影。
最後はいつものこれで〆。
将門さんの優しい魂を感じる國王神社、
素晴らしかった〜!