丸岡城(令和6年4月)天守内覧

 

名を残す

丸岡城を最初に築城したのは、

柴田勝家の甥で養子の柴田勝豊です。

この人の運命は、

本能寺の変で翻弄されます・・・

織田家の後継者を決める

清洲会議の結果、

柴田勝家の城とされた長浜城

勝豊はその城代となったものの、

数ヶ月で秀吉に降伏開城し、

その直後、病死しています。

勝家側からしたら裏切り者ですが、

「裏切り」という言葉は、

使う人によって変わるもの。

勝家の本拠、北ノ庄城の遥か遠く、

孤立無援の長浜城にポツンと

捨て置かれたような勝豊さんには、

降伏という選択肢しかなかったでしょう。

ただ、「丸岡城の築城者」として、

名を残しただけでも凄いこと。

きっと天から今の丸岡城の繁栄を見て、

「ワシも大したものじゃな・・」

なんてお喜びかも知れませんね!

天守内覧

2度目の訪問の今回、

時間がないので、天守内部は

パスしようかとも思っていましたが、

天守を見ると、

あっという間に決意は崩壊(笑)

丸岡城天守、

やっぱりこの角度が

カッコいいかな?

いやこっちからも良いな〜(笑)

この階段の雰囲気、

なんだか出雲大社本殿の

平安時代バージョンに似ていますね!

ちなみにこれです。

共通点は一直線(笑)

話は丸岡城に戻って、

天守内部の散策へ。

内堀なども再現したジオラマ。

内堀を復元する

プロジェクトもあるようなので、

将来この姿が見られるかもですよ!

こちらからの方が、

五角形の内堀が良くわかりますね。

この後は、2階へ。

陣中から妻に宛てた

「一筆啓上 火の用心

お仙泣かすな 馬肥やせ」の

日本一短い手紙の張本人、

本多重次さんとその嫡男、

「お仙」こと本多成重さん。

それに抗う妻(笑)

入母屋破風から笏谷石の瓦を肴に

花見と洒落込みました(笑)

最上階への階段は間違いなく梯子ですね!

天守最上階。

時間もないので、

四方の景色を速攻撮影。

北側。

東側。

南側。

西側。

梯子(笑)で階下へ。

何とか一階に到着。

この妻の表情の意味、

・・忘れました(笑)

出口からの風景。

石製の鯱(しゃちほこ)。

こちらも称念寺の石像物と同じく、

昭和23年に起きた福井地震の遺産で、

当時、丸岡城が倒壊した際、

鯱も落ちてこのような姿になっています。

最後にツーショット完了。

手前の駐車場は平日なのに満杯だし、

団体さんも来ているし、

丸岡城は、

大盛況と言って良いでしょう!

僕たちは少し遠くにある

「日本一短い手紙の館」の

駐車場に停めたので、

そこまで戻って、

越前大野城を目指します。

 

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