丸岡城(鶴岡市)加藤忠広配流の地

 

副産物

徳川家康が亡くなり、

二代秀忠、三代家光の代になると

福島正則はじめ、

豊臣恩顧の有力大名達への

改易ラッシュとなり

熊本五十四万石、加藤清正の後継者、

加藤忠広(忠廣)も改易され、

庄内藩預かりとなっています。

そんな加藤忠広が居住したのが、

天澤寺てんたくじに隣接する

丸岡城という名の小さな居館です。

実は、

駐車場の案内を見て初めて、

丸岡城の存在を知ったのですが、

やはり現地に行くと思わぬ

副産物を得られるものですね(笑)

丸岡城跡公園

天澤寺の参道口から徒歩1分で、

案内板に到着。

「丸岡城跡公園案内図」

小さな居館といっても

土塁や堀まである立派な城です。

案内を書き出すと、

「丸岡城跡」

「庄内地方は鎌倉時代より

四百年の間武藤氏の支配下にあり、

戦国期以降上杉領、最上領となりました。

丸岡は庄内と内陸を結ぶ

六十里越街道の要衝に位置していたため、

代々の領主により

大宝寺城(鶴ヶ岡城)の支城として

楯館(丸岡城)がおかれていました。

元和八年(1622)には

酒井氏が庄内藩主として入部しました。

寛永九年(1632)

肥後五十四万石の大名加藤忠廣公は、

幕府より一万石をもって改易され

庄内藩に預けられました。

丸岡城跡に居館を構え二十二年間を過ごし、

運命に翻弄された波乱の生涯を終えました。

昭和三十八年、

丸岡城及び天澤寺境内の史跡は

「丸岡城跡・加藤清正墓碑」として

山形県指定史跡に認定されています。」

このようになります。

堀の風景。

綺麗な花が忠廣公の菩提を

弔っているような・・・

大手門跡から城跡の散策へ。

「遺構/馬出シ」

平和な時代、

馬出しが必要だったのかな?(笑)

土塁の向こうに見える天澤寺本堂。

居館の平面復元。

「遺構/石敷道路」

「遺構/御袋様館」

母親の居館だった場所でしょうか・・

庭園遺構。

ここから居館の重要部分、

太夫石、巫子石が安置される中心部に

行きたかったのですが、

雨でびしょびしょの草むらを

これ以上進む気力が失せ(汗)、

ズームで撮影することに。

なんとか撮影成功!

天澤寺の参道口にある案内を

書き出すと以下になります。

「巫子石・太夫石」

「肥後熊本から奉持された

清正公の遺骨を仮埋葬し

さらに母堂の亡骸も

埋葬した場所である。」

後年、清正公の遺骨は

天澤寺に埋葬され、

母堂の亡骸は忠廣公とともに、

本住寺に眠っています。

加藤忠廣公の無念の胸中、

今もここに残っている気がします・・

 

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