松代城(長野県長野市)
松代城(海津城)跡
お城の案内板によれば、
「松代城は、江戸時代には
松代藩主・真田家の城でした。
そのはじまりは、
戦国時代に築城された海津城です。
海津城の築城年代は不明ですが、
海津城の名が文献で確認できるのは、
永禄三年(1560)ですので、
この頃にはすでに
築城されていたことがわかります。
戦国時代から江戸時代初期まで
この地を支配した
武田信玄や上杉景勝などにとって、
この城は北信濃を支配する上での
軍事・政治的に
重要な拠点となっていました。
元和八年(1622)に
真田信之が上田城から松代城に移り、
松代藩政の拠点としました。
(後略)」
このように書かれています。
戦国時代、武田氏の配下として
各地で戦ってきた真田氏が、
江戸時代になって、
武田氏の作った海津城を引き継ぎ、
松代城主として戻って来たのは、
不思議なご縁ですね。
そんな海津城を紹介する石碑が
本丸に建っていました。
表側。
裏側。
碑文を抜粋・補足すると
「天文二十二年(1553)
武田晴信(信玄)の家臣、
山本晴幸(勘助)の築く所ナリ」
この石碑を見て、
第四次川中島の戦いで
討ち死にした山本勘助さん、
草葉の陰で喜んでいるかもですね!
太鼓門
駐車場から歩いてすぐの場所に、
松代城の表門である太鼓門があります。
松代城の縄張り。
南門。
ここから太鼓門枡形が見えています。
太鼓門前橋と太鼓門枡形。
左右の景色も含め動画で撮影。
太鼓門前橋を渡り高麗門へ。
枡形内から高麗門・土塀を撮影。
左が太鼓門、右が高麗門の軒(笑)
太鼓門。
太鼓を鳴らしていたので、
この名前が付いたようですが、
意外と、
色んなお城で聞く名前ですね。
やはり時を告げるには、
「音」が大切な時代だったのでしょう。
本丸から見た太鼓門。
天守台(櫓台)
次に天守台へ。
このあたりの石垣は、
近世以前の古いものらしいのですが、
確かに、手前の石垣などは、
石垣の初期段階っぽいものですね。
もしかして、
山本勘助さんの時代でしょうか?
ただ、石垣の形自体は、
均整もとれて素晴らしいもので、
加藤清正の熊本城で有名な
「扇の勾配」の元祖みたいな形など、
当時の技術水準の高さには、
ホント驚かされます。
う~ん素晴らしい!
天守台を城外から撮影。
天守台に登ります。
天守台からの景色。
北不明門
次に搦手である北不明門枡形へ。
天守台への階段から撮影すると、
北不明門枡形の全景が撮れます。
本丸内から見た北不明門。
枡形内から撮影した北不明門。
撮影している時に気づいたのが、
こちらの屋根です。
杮(こけら)葺きですね!
そして、
他の建物も確認すると、
全てが杮葺きになっているようです。
瓦を使わない理由は、
やはり雪対策だったのでしょうか?
枡形から高麗門をくぐり本丸の外へ。
外側から見た高麗門。
北不明門枡形の全景。
埋門
次に天守台から延びる
土塁に掘られた埋門へ。
その前に、北不明門から天守台、
そして埋門までを動画で撮影。
埋門。
トンネルがあれば、やはり、
くぐってみたくなる(笑)
城内側から埋門を撮影。
右端は天守台。
土塁に登って天守台と
それに続く石垣を撮影。
この土塁、下から見るよりも
上から見るとかなり高いので、
降りる時はちょっと危険かも・・・
いや、年のせいかな?(笑)
北東の櫓台?
縄張り図を見ても
天守台、櫓台などとは
全く書かれていないけど
外見が櫓台・天守台っぽいものがあります。
北不明門と二ノ丸の境の
重要な場所ですから
やはり何らかの櫓があったかも?
二の丸
お城の東側には二の丸があります。
土塁には芝が植えられ、
綺麗に整備されていますね。
東不明門と橋。
二の丸と外堀・馬出をつなぐ石場門。
本丸南東の端。
遠くに見えるのは太鼓門枡形への橋で、
あそこまでいけば、
ほぼ本丸を一周したことになります。
一周完了(笑)
太鼓門前にてツーショットで〆。
今日の勘違い
武田時代の馬出と
三日月堀跡を見ようと
探し当てたのが、こちらです。
三日月なので、三日月堀。
しかし、本物の三日月堀跡は、
駐車場の前あたりだったのです。
まあ、これはこれで良いか!
常に完璧を目指さない僕の
面目躍如(強がり)でした(笑)