記念艦 三笠・無線電信室

 

先端技術

戦争には我が方の正義と

相手の正義があり、

勝った方が真の「正義」となり、

負ければ「悪」とされ、

最悪の場合、歴史も言葉も消され、

民族浄化で純血はなくなり、

国の根幹も無くなっています。

これは歴史を知れば、

誰でも理解できる真理です・・

だから戦争は勝つしかないのです。

そして勝つためには、

寝食を忘れるほど、

最大限の努力が必要で、

そんな「血の滲むような努力」をしたのが、

日露戦争であったと思います。

反対に、

科学や先端技術を舐めていたのが、

大東亜戦争(太平洋戦争)でしょう。

なんせ開戦時からしばらくは、

飛行機の無線は、まともに通話できず、

レーダーも無く、

終戦近くになっても

戦国時代と変わらない、

ツルハシとモッコの人海戦術で

飛行場を作っていたのですから。

(アメリカはブルドーザーを使用)

そんな慢心した昭和とは違う、

明治の「国家存亡の危機感」溢れる

日本人の魂を感じたのが、

突貫工事で、全艦艇に装備した、

「三六式無線電信機」です。

恐らくこれは戦争の帰趨を決した、

大きな力だったに違いありません。

無線電信室

三笠の観覧で、

妻のテンションが最高に上がったのは、

モールス信号体験が出来た、

電信室で間違いありません(笑)

何故なら、

妻の前世が特攻隊員で(多分)、

突入のモールス信号を聞くと

涙が止まらないからです・・

後部艦橋(右のマストの部分)に

電信室はあります。

後部主砲から電信室へ。

まずは案内を確認。

「三六式無線電信機」

以下、全文です。

「日本海軍はマルコニーが発明した

無線電信に着目し、実用化のため

無線電信調査委員会を設けて

研究開発に努め、

明治36年(1903年)に

三六式無線電信機を完成させました。

三六式無線電信機は、

突貫工事により日露戦争が始まるまでに

全艦艇。監視所、

陸上司令部などに装備され、

連合艦隊の円滑な指揮運用、

迅速な情報の収集・配布が

可能になりました。

なお、この電信機の通信距離は

80海里(150km弱)でした。」

これはまさにZ旗の意味と同じですね!

「皇国の興廃この一線にあり、

各員一層奮励努力せよ」

武田信玄だったか、

「勝負は戦う前に決している」

こんな言葉を彷彿とさせてくれます。

準備万端の日露戦争、

希望的観測の大東亜戦争、

結果は明らかですね。

「海軍技士 木村駿吉」

「第二高等学校教授(現・東北大学)

木村駿吉は乞われて海軍技師になり、

無線電信調査委員会の委員として

日夜研究に励み、明治34年に

三四式無線電信機を開発、

更に性能の改善を図り、

三六式無線電信機を完成させました。

本装置は横須賀海軍工廠造兵部で

木村駿吉技師の直接指導を受けた

元工手山田寿二氏が製作した複製です。」

日露戦争の前年の

明治36年完成というのが、

当時の危機感を感じます。

文字通り粉骨砕身、

努力された結果ですから・・

「対馬海峡における索敵強化」

「海戦に勝利するためには、

敵艦隊を早期に発見して

主導権を確保する事が不可欠であり、

東郷連合艦隊司令長官は

バルチック艦隊の近接に備え、

対馬海峡西方海域に総勢約70隻の

艦船を幾重にも配備しました。

5月27日02:45

仮装巡洋艦「信濃丸」は

バルチック艦隊を発見し

「敵艦見ユ 203地点」を発信、

第3艦隊旗艦「厳島」がこれを中継し

連合艦隊司令部に報告しました。

その後、巡洋艦「和泉」が

バルチック艦隊との接触を保って

刻々とその動向を連合艦隊司令部に打電し、

これにより東郷連合艦隊は

その敵情をもとに有利な迎撃態勢を整え、

日本海海戦に

大勝利することができました。」

このように記されています。

やはり情報戦を制することが、

戦争に勝利する事、

それを完璧に理解して実践した

明治の日本人たち、

素晴らしいと思います。

説明版。

「電波と無線の歴史」

以下、全文です。

「電磁波(電波)の存在は

イギリスの理論物理学者

ジェームズ・クラーク・マクスウェル

によって存在が予言されており、

1888年にはドイツの物理学者

ハインリッヒ・ルドルフ・ヘルツが

実験によって電磁波の存在を

証明することになります。

無線通信の歴史は、

1895年にイタリアの

グリエルモ・マルコーニが

ヘルツ博士の論文などをヒントに

無線電信機を発明したところから

始まります。

今から130年前、

日本はすでに明治時代の中盤でした。

そして、無線通信の発展は、

日本海海戦(日露戦争)での

日本独自の無線機器

「三六式無線電信機」の活躍や、

タイタニック号遭難事故によって

その重要性が知れ渡って、

研究開発が加速したことによって

成し遂げられたのです。」

そして、

ここからが妻のクライマックス、

モールス信号体験です!

ちゃんと音が出るのが凄い!

これを見た妻の喜びようは、

尋常ではありません。

嬉しくてたまらない妻。

モールス信号聞いて

涙が出るという割には、

めっちゃ明るい顔しています(笑)

建造当時の甲板

僕たちが見学していると

親切な職員の男性が近づいてきて

少し案内してくれました。

その一つが、

建造当時の甲板です。

建造当時のものは

幅広のチーク材です。

お〜高級感溢れてますね!

復元甲板と比べると

一目瞭然、物が違います。

この直後、

おじ様が撮ってくれたのが、

こちらの写真です。

ありがとう、おじ様!

素晴らしい記念になりましたよ!

被弾鉄板雪見燈籠

撮影場所に面して置かれているのが、

被弾鉄板雪見燈籠です。

まずは説明を確認。

「被弾鉄板雪見燈籠」

「日本海海戦で射抜かれた

三笠の艦材を用いて作られたもので、

呉鎮守府から伊藤博文公に贈られ、

あとで伊藤家から

記念艦三笠に返されたものです。」

射抜かれた鉄板で、

燈籠を作る発想、

どこから湧いてくるのでしょう(笑)

穴の大きさからして、

8cm砲くらいの弾が

貫通したのでしょうか・・

ここで生々しい現場を想起できるのも

燈籠として保存されていたからで、

作った人、偉いと思います。

砲員の動き

ここでは15センチ砲による

砲撃の様子を展示しています。

以下、案内です。

「砲員は砲室の中で寝起きし、

食事をとり、自ら砲の手入れを行って

ピカピカに磨き上げていました。

夜は釣床(ハンモック)を砲室内に

吊るして休みましたが、

この釣床は被弾したときに

炸裂した砲弾の破片から

乗員を守るためにも使われました。」

これを読んで思い出すのが、

零戦パイロットの

坂井三郎氏の著書の中で、

「戦艦霧島の乗組員だった頃、

艦底近くは錆だらけで、

これじゃ戦争に勝てないと思った」

こんなことを書かれていました。

やはり、準備が大切、

慢心は敵ですね・・・

そして、

おじ様が教えてくれたのが、

砲員と砲員長の履き物の違いです。

砲員は地下足袋。

砲員は靴!

これって、

教えて貰わないと、

なかなか気づかないですよね!

釣床(ハンモック)を釣った時の砲室。

まるで大砲に添い寝している感覚です。

「釣床を使用したのは、

海軍中尉以下の約830名です。」

このように記されています。

三笠の乗組員全部で859名と

案内されていましたので、

ハンモック率は97%近くです(笑)

8cm砲台

次に舷側の砲台へ。

案内には、

「当時12听砲と呼ばれ、

砲員は4名、弾丸重量は54kg、

20門ありましたが現在10門です。

どの砲も旋回俯抑可能です。

全部模造砲です。」

このように書かれています。

15cm砲が10人だったのに比べ、

砲が半分ほどの口径だと

人数も半分ほどで済むのですね。

射程距離からして、

この8cm砲を撃つ時は、

相当に接近戦でしょうから

被弾も多かったはずです・・・

やはりここで、

相当数亡くなられていますね。

「勇士戦死のところ」と題して、

黄海海戦で擲弾の命中炸裂により

亡くなった8cm砲員のお名前が

刻まれています・・・

こんな撃ち方で良かったかな?(笑)

コインロッカー

ここで再びおじ様登場!

「無料のコインロッカーが

そこにありますから

是非お使いください」

そう案内してくれたのです。

へ〜三笠にコインロッカーとは、

狭い場所もあるし、

お言葉に甘えることに。

「艦これ」のお姉様がお出迎え!

ロッカーは100円入れて、

荷物を取り出すときに

戻ってくるタイプのものです。

思わぬ利便性に遭遇し、

感動した僕たちでした!

(続く)

 

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