松尾の丸(日南市・飫肥城)

 

飫肥藩の歴史を凝縮

入る前に想像していたのを

遥かに超える満足度だったのが、

ここ松尾の丸です。

内容が濃すぎて、

ついつい時間を忘れてしまうほどで、

大いに堪能させて貰いました。

飫肥藩主だった伊東氏、

そのルーツが、

静岡県の「伊東」にあるという事を

知ることが出来たのも

松尾の丸のお陰です。

この一つをとっても

ここに来た甲斐が

あったというものでしょう。

松尾の丸へ

実は、飫肥城の旧本丸へ行く前に、

ここ、松尾の丸へ寄ったのですが、

冒頭に書いたように

あまりにも内容が濃かったので、

飫肥城の別稿として、書いています。

案内によると、

「松尾の丸」は、

飫肥城の曲輪の一つ、松尾丸に

昭和54年(1979年)、

江戸時代初期の建物を

検証しつつ丁寧に建てられた

書院造の御殿です。

エントランス。

靴箱前の飫肥杉製の椅子。

こんな所にもおもてなしの気持ちが

ビシバシ伝わってきますね!

玄関ノ間

松尾の丸に入ると、

すぐ先に玄関ノ間があります。

鎧が二領展示され

いきなり武士気分?

二つの鎧の持ち主などを丁寧に案内。

左は、伊東家の家紋について。

54万石の細川家に遠慮して、

九曜紋を十曜紋に変えた、

しかし、呼び名は、

そのまま九曜紋としたなどと、

レアな情報も書かれています。

右は鎧の展示について。

現代の鎧立てでは大きすぎ、

昔の体格の鎧だと使えなく、

大工仕事で調整したそうです。

こんな当事者しか知らない

裏話的なエピソードを披露され、

グイグイ松尾の丸の魅力に

引き込まれていく自分がわかります(笑)

無双窓の説明と

実際に体験できる窓。

イラストも秀逸!

飫肥藩の川御座船

次は川御座船の展示。

絵図面付きの案内によると

「西日本の諸大名は

大坂に川御座船を置いて、

参勤交代で大坂と伏見の間を

淀川の水運を利用して移動した。」

このように書かれています。

全景が撮れないくらいの大きさ。

前から。

御座の間

次に御座の間へ。

御座の間手前の

100均で売ってるような、

コルクボードに貼ってある

「雨垂れ拍子」の案内。

内容以前にこの手作り感が、

たまらんですね!

この松尾の丸、

ハード面はお金をかけて、

申し分ないほどに

立派であるのは言うまでもありませんが、

そのソフト面である、

「運営する人の息吹」が

随所に感じられるのが、

素晴らしいという他ありません。

なんか、感動ばかりです(笑)

この案内を要約すると

「古い武家屋敷を参考に建てられた

松尾の丸屋敷には、雨樋がありません。

雨の日には、

屋根から雨水が直接地面に落ちていて、

今の私たちにとって

珍しい光景になっています。

雨雫が等間隔で、リズミカルに落ちる音は、

昔から「雨垂れ拍子」と言いました。

ぼんやりと聞いていると癒やされますね。」

このように書かれています。

この案内、

雨の日に訪問された観光客の気持ちを

少しでも明るく出来るようにとの

深謀遠慮が

含まれている気がしてなりません。

御座の間の案内、

「松の丸の正しい楽しみ方」

これが、模範的な、

正しい楽しみ方です(笑)

御化粧ノ間

いくつかの部屋は割愛して、

次は、御化粧ノ間へ。

「雨の日、曇りの日に御来館のお客様へ」

「この機会に昔の屋敷の暗さを体験」

何だこの案内!

いや~泣けますね~!

先程の「雨垂れ拍子」といい、

ここといい、

こんな優しい施設が他にあるのでしょうか?

いや多分あるはずだし、

体験もしてきたとは思いますが、

松尾の丸の優しさは計り知れません。

僕たちは快晴の日の訪問でしたが、

昔の暗さを体験する代わりに、

この施設の優しさを

体験出来た事に感謝です。

雪隠(せっちん)

雪隠とはトイレの事。

御手洗所と男性小便器。

いや殿様用の便器でしょう。

こちらが「大」用(笑)

座る方向はどちらでしょう?

そんな問題が書かれています。

正解は右側。

左の鳥居のようなものは、

着物の裾を掛ける場所だそう。

知らなかったな~(笑)

雪隠の仕掛け。

殿様の健康状態を確認する為、

便は都度家臣が回収する仕組み。

これって、

今の天皇陛下も同じ事するそうですよ。

(僕が小学生の時先生に聞いた話)

回収する側も大変ですが、

回収される側も緊張しそうですね(笑)

伊東氏の歴史

次に湯殿に向かう途中、

廊下の掲示物が、素晴らしいので、

一部を抜粋してみます。

(全部だとブログが終わらない?笑)

「松寿院を中心とした伊東氏系図」

松寿院は、初代飫肥藩主、

伊東祐兵(すけたけ)の正室で、

伊東氏が飫肥藩主として

返り咲いた功労者でもあります。

松寿院の生い立ち。

「飫肥藩成り立ち物語り」

藩主ではなくその正室の

松寿院を中心にと書かれています。

これだけで、

どんだけ偉い女性だったかが

理解できますね。

その松寿院の経歴をかいつまんで書くと、

「松寿院は少大名の妻ながら、

その活躍ぶりは鎌倉時代の北条政子や

同時代の北の政所(秀吉の妻)・

前田利家の妻、山内一豊の妻を

彷彿とさせるものがあります」

「伊東祐兵と結婚、しかし

伊東家は島津との戦いに大敗して

没落してしまいます。

松寿院は一族と共に豊後国(大分県)

伊予(愛媛県)などに亡命し、

苦しい生活を送ることになりました。

その後、

幸運にも夫祐兵が豊臣秀吉に仕え、

旧領の一部であった飫肥に2万石余の

少大名として復帰することが出来ました。

晩年の松寿院は、

関ヶ原の戦直後に急死した夫に代わって、

幼い二代藩主祐慶を後見して

藩を保つことに成功しました。

特に江戸に移り住んでからは、

幕府の情報を国元の藩主に送ったり、

お家騒動を未然に解決するなど、

その功績は飫肥藩にとって

計り知れないものがありました。」

あまり、

かいつまんでいませんが(笑)

このように書かれています。

伊東氏全盛期には

日向(宮崎)をほぼ支配し、

48もの城(拠点)を構えていたそうで、

これを「ISY48」と命名しています(笑)

この後、

ここからは、伊東氏の没落後、

復活までのストーリーを詳しく解説。

松寿院が大友氏の

臼杵城からの脱出劇を紹介。

道後(愛媛県)での

窮乏した暮らしぶり。

織田信長の家臣時代の

羽柴秀吉に仕えた場面。

僕は九州平定の直前に

秀吉に仕えたのかと思っていましたが、

そうではなく、

まだ、天下人にもなっていない時から

秀吉の戦いに随伴していたことで、

最終的に飫肥城主に

復活出来たのでしょう。

湯殿

ここは、豊臣秀吉が、

京都の聚楽第で使用したと

伝えられる湯殿を復元したものです。

脱衣室の案内。

脱衣室は広い!

湯殿。

屋根は唐破風ですね!

使い方。

湯殿のしくみ。

薪をくべる場所。

外観

ようやく外に出て、

建物を一周してみます。

側面。

ここから先は土塁の上を歩きます。

土塁。

裏側の外観。

さらに半周。

土塁上で五輪塔を発見。

「昭和五十八年」と刻まれ、

松尾の丸が建てられて4年後、

飫肥城下町保存会が建てたものです。

最後に土塁をもう一枚撮影して

ようやく松尾の丸散策は完了です。

今日の発見

蘇鉄の案内。

「(前略)古い例としては、

応永年間(1394~1428)に、

山口の守護大名、大内盛見が、

京都の邸に大きい池泉庭園を作り、

この庭園にはじめて

蘇鉄が植えられています。」

「後に大内氏は勘合貿易を

行っていますので、

さまざまなルートで日本に

伝わったと云われています。」

このように書かれています。

これでまた一つ、

知識が増えましたね!(笑)

 

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