水戸城(茨城県)大手門
ストレスフリー
水戸の都心部に位置する水戸城は、
各曲輪(郭)が横並びになった
典型的な「連郭式平山城」で、
その構造を生かした整備状況は、
実に巡りやすいものでした。
建物は、現存・再整備・復元と
それぞれの状況に合わせた見せ方で、
案内なども分かりやすく、
整備状況のランキングがあるならば、
間違いなくAランクよりさらに上、
Sランクを付けたいと思います。
ということで、
時間的に余裕がない僕たちにとり、
ストレスフリーで攻城できた城として、
深く心に刻まれています(大袈裟か?笑)
パンフレット
水戸城のパンフレット、
大きさは一般的なA4ではなく、
A5の見開きになっていて、
これが実に手に馴染むし、
とても見易いのです。
きっと考えた末の結果、
このサイズにしたのでしょう。

表紙には、米軍の空襲で焼失した
三階櫓の古写真が使われています。
尾張、紀伊、水戸という
徳川御三家の城の中で、
水戸城だけが、
天守を作らなかった
(立場上作れなかった?)のですが、
理由はどうあれ、
太平の世に維持管理費が
莫大にかかる天守は無用の長物で、
後から考えると三階櫓というのは、
慧眼だったと言えるかも知れません。
(現代の観光資源としての天守は、
有用でしょうが・・笑)

見開きの案内図と見所。
僕たちは地図の左側、
三の丸・弘道館前から
大土手(大堀切)大手門、二の丸、
堀底を電車が通る堀(大堀切)、
そして本丸の薬医門を巡ります。

裏面は年表です。
弘道館
興味の湧き具合と時間の都合で、
水戸藩の藩校だった弘道館は、
門前から見るだけです。

十五代将軍となった徳川慶喜も
弘道館で勉学に励んでいたんですね。
また、水戸城界隈の散策路は、
「水戸学の道」と名付けられ、
この「水戸学」なるものについて
案内には以下のように記されています。
「水戸学は、水戸藩主
徳川光圀公(水戸黄門)の
「大日本史」編纂が始まりとされる。
江戸時代後期には徳川斉昭公らが、
天皇のもと国全体で諸外国に立ち向かう
「尊王攘夷」論を示した。
藩を超えて国家的視野から
様々な課題に対応する理念が、
明治維新や近代日本の形成に
大きな役割を果たした。」
徳川光圀公は後醍醐天皇への
忠誠心で名高い楠木正成公を祭る
神戸市の湊川神社に、
「嗚呼忠臣楠子之墓」を建立するなど
「集客して万人に知らしめる」という
実務的かつ行動派でもありました。
その思想は幕末の徳川斉昭公へ
続いて行き、遂には明治維新の
原動力にもなったのでしょう。

弘道館門前から撮影。

今回はここまでです。
徳川斉昭公銅像
弘道館の向かい側、
大手門の手前に建つのが、
こちらのお方です。

弘道館、見てますね〜(笑)

水戸藩九代藩主、徳川斉昭公像。
先ほど水戸学でも出てきたお方です。

実は意外とちっちゃいんですよ(笑)
ただこの大きさも
「パンフ」や「三階櫓」と同じく、
中身重視の表れなのかも知れません。
大手門
大手門のパンフレットも
水戸城全体のものと同じく
A5サイズの見開きです。

表紙。

「水戸城と大手門」
案内を要約・抜粋してまとめると
以下になります。
「水戸城の正門にあたる、
最も格式の高い門です。
佐竹氏が水戸城主だった慶長6(1601)年頃建てられ、
その後、何度かの建て替えが行われた後、
明治年間に解体されたと考えられます。
復元の根拠となったのは、
6回に及ぶ学術調査で、
鯱瓦をはじめ大量の瓦や錠前、
釘などが出土しました。
また、大手門の寸法や
建物の意匠を調べるため、
現存する古写真や絵図資料を収集し、
記載された寸法を参考にしました。」

裏面は「復元工事の流れ」。
基礎部分はコンクリートですが、
上物は木材主体となっています。

大手門手前の大堀切に架かる橋へ。
その橋の上から見たのが、
こちらの光景です。

巨大な堀切だ〜!
壮観としか言いようがありませんね。
そして反対側から見ると・・

こちらも深い堀切(堀)となっています。
石垣を使用していない水戸城、
これだけの深さがあらば、
守りは鉄壁だし、
石垣のメンテナンスも不要ですから
よく考えられたものだと感心します。
次に階段を使い堀底へ。

お〜来た〜堀底!(笑)

この高さだと攻めるのは、
諦めるしかない?かな(笑)

堀底にあるバス停の名前は「大手門下」。
ここから見ると、
橋の高さがよく分かります。

再び大手門前へ戻り二の丸方面へ。

左手前の木の中にある
「まん丸い形」が気になる妻。
時々見ますが、
いったい何でしょうか?

「大手門瓦塀」。
以下、説明の抜粋です。
「水戸城大手門の特徴の一つに、
大規模な瓦塀
(練塀とも呼ばれます)があります。
復元に伴う発掘調査で発見されました。
復元高は4m、幅は最大2.7mと
非常に肉厚で、
門の四隅に取りつきます。
このようなタイプの袖塀を持つ城門は、
全国に例がありません。
現在の瓦塀は外観を復元したもので、
内部には瓦塀遺構が
発掘当時の状態で保存されています。」

瓦塀(復元)。

門の大きさを妻と比較。
両方の瓦塀の厚みもなんとなく
理解できます。

二の丸側から。

門近くの御製碑。

以下、案内を抜粋します。
「昭和天皇が、終戦直後の
戦災状況を視察するため、
昭和二十一年十一月十八・十九両日
水戸に行幸されたと気に、
県庁屋上から市街をみわたされて
「たのもしく
よはあけそめぬ
水戸の町
うつつちのおとも
たかくきこえて」
と復興ぶりのお歌をお詠みになられた。
陛下は、
翌二十二年の新年御歌会において、
「あけぼの」と題され、
水戸で詠まれたお歌をご披露なられた。
このため水戸市では、
大水戸市長復興祭および
市制七十周年の両行事を記念して、
同三十四年水戸駅前広場に
御製の碑を建てた。
その後、
水戸駅北口再開発事業における
駅前広場改造に伴い、
平成二年に減税ちに移設したものである。
なお「御製」とは、
天皇陛下が作られた
詩文や和歌のことをいう。
水戸市」

ここでルーショット完了。

立派な大手門を名残惜しみつつ、
二の丸内部へと進みます。