宗任神社(茨城県下妻市)拝殿・本殿

 

撤下てっか

宗任むねとう神社の本殿裏を歩いていた時、

境内の掃除をしている男性から

僕たちが挨拶するよりも先に、

「この裏には古い用水溝がるから

見て行かれてください」

このように優しく声をかけられ、

宮司さんかな?

そう思いながら後ほど御朱印を

お願いしようと社務所に行くと

正解でした!

宮司さん自らの書で、

龍神様のスタンプが押された

素晴らしい御朱印を授与くださり

それだけでも

実にありがたい事なのですが、

な、なんと、

「撤下」までいただいたのです!

しかも

お願いした御朱印は一体なのに、

撤下は二人分なのですから、

もう恐縮しかありません。

・・でも有り難く頂きました(笑)

その撤下、

箱だけ見たらボールペンかと思いきや、

その予想は全く違い、

僕たちの常識の遥か斜め上をいく

センス抜群のものでした。

孫の手!!

じゃ〜ん!

伸縮自在で、これならば

指揮棒としても使えますね!

指揮者じゃないけど(笑)

神様から下げ渡される

撤下のご利益もいただき、

改めて宗任神社愛が深まりました!

現在、我が家では、

この指揮棒?鋭意大活躍中です。

御神輿蔵

霊(みたま)神社参拝後、

お隣の御神輿蔵へ。

全面ガラス張りで、

御輿もよく見えます。

「御輿」の書体が味があって

実に素晴らしい!

特に「こし」の文字が。

御輿に参拝。

交通神社・天満宮

参道を挟んで、御輿の反対側に

天満宮の幟がはためく

お社がありますが、

扁額には「交通神社」とあります・・。

お社の左横には、

「天満大自在天神」と刻まれた

御神体が見え、

僕たちの意識は「天満宮」のみ・・

交通の神様、ごめんなさい(汗)

拝殿・本殿

そして、ようやく拝殿前に到着。

右側の石碑には、

「食前感謝」

「食後感謝」の文字が見えています。

「いただきます」と「ごちそうさま」

の前に唱えるより丁寧な

感謝の言葉のようです。

安倍宗任命あべのむねとうのみこと、遂に会えました・・・

宗任さんと言えば、

やはり京都で詠んだ歌です・・・

「我が国の梅の花とは見つれとも

大宮人は如何言うらん」

前九年合戦で降伏し、

都へ送られた宗任さんは、

都人から蛮族扱いされ、

「この花の名分かるか?

(お前みたいな蛮族にはわかるまい)」と

嘲りの態度で梅の花を見せられた時の

宗任さんの返答です。

学識高く武勇に優れた安倍宗任命、

その御神徳は、はかり知れません・・・

扁額。

神社の「社」の右に点が

一つ入っていますが、

これは何を意味するのでしょう?

本殿に参拝。

玉垣の中を覗くと、

素晴らしい狛犬が!

素晴らしい!

この威圧感ならば、

宗任さんも安心です(笑)

神馬

本殿周辺には、

境内社など、いくつもの

見所があります。

珍しい木彫りの神馬。

「神馬奉納由来」

これは凄い言われがあります!

現代語で要約すると

「上野仁氏は本宗道に生れた

木彫に巧な人人物である。

昭和五十七年豪雨で、

鬼怒川が洪水となり、

水が引いた後、

滑田にて巨木が見つかった。

これを上野氏に渡した。

上野氏が巨木を占ってもらった所

日光二荒山中の神木で独占すれば、

悪いことが起きるとのことで、

大祓を受け、上野氏の心は鎮まり、

木彫りの師匠に相談し、

木彫りの神馬を奉納する事となった。

数百年川の中に眠り

その姿を現した巨木・・

そもそも滑田の地は、

宗任神が鎮護するため、鳥海とのみを発し、

二荒を過ぎ、野洲を下り、下総に入り、

初めて上陸した土地であり、

これもこれは神慮かも知れません。」

なんというストーリー!

これは、ただの神馬じゃなく、

安倍宗任命の魂が宿った、

特別な神馬です。

境内社など

次に本殿真裏の神明神社へ。

天照大神様に参拝。

「松本七郎 藤原秀則翁」石造。

御神託を奉じ、

天仁二年(1109)奥州を出発し

ここ宗任神社を創建した方の像です。

水神宮(右)と豊受神社。

江連用水旧溝宮裏両樋えづれようすいきゅうこうみやうらりょうひ

神社の裏手にあるのが、

江戸時代に開作された用水で、

冒頭に書いた掃除中の宮司さんから

教えていただいた遺構です。

鳥居をくぐり境外へ。

明治時代に積まれた煉瓦も

いい雰囲気ですね!

二つある案内は、

それぞれの趣が違うので、

どちらも抜粋してみます。

「江連用水旧溝」

「江戸幕府開設に伴い、

治水墾田策が打ち出され、

下妻以南から水海道に至る

広大な湿地は開田された。

しかし上流は水不足、

下流部は冠水に悩まされた。

農民たちは多年にわたって

幕府に訴願したが、

幕府は手を下そうとはせず、

農民たちの疲弊は極度に達した。

豊田村の荒川又五郎、

加養村の稲葉儀右衛門、

三坂新田の猪瀬周助らは見兼ねて、

救済に一身を捧げることを発願、

神誓の盟約を交わした。

数年におよぶ努力の結果、

遂に幕府を動かし、

文政十二年(1829)

江連用水を成就させた。

かくて、

豊田郡1654町歩の稲田には水が潤い、

農民は生気をとり戻した。

それから150年の歳月が流れた。

用水路は老朽化し、

昭和五十年に近代工法による

通水路が新たに造られた。

ここに旧用水路はその使命を終え、

時代の流れの中で忘れられようとしている。

また「千代川村」の村名は、

用水工事の陣頭指揮を執った

当時の幕府御普請惣見廻役市村宗四郎が、

竣工させ自ら開樋した時に読んだ句

「樋びらきや 豊田郡の千代の水」

からとったものである。」

「宮裏両樋は、鬼怒川左岸の

真岡市上江連を水源とし、

鬼怒川と小貝川に挟まれた地域の

灌漑用水として設られた

江連用水の旧分水施設である。

「江連用水史」の記載から、

明治三十三年(1900)に

宮裏両樋が煉瓦仕立てに

改められたことが判明する。

設計者は伝えれれていないが、

煉瓦の積み方は

イギリス積みが採用されている。

かつては多数の煉瓦水門が存在したが、

現存するのは本件のみである。

宗任神社の裏手に位置することから、

「宮裏堰」とも呼ばれ親しまれてきた。

この度、

「国土の歴史的景観に寄与しているもの」

として登録有形文化財となった。」

奥側から撮影。

往時の水の流れが

目に浮かびます・・・

江戸時代から明治、

そして昭和50年までの長きに渡り

人々に恵みをもたらした宮裏両樋、

語り継いで行きたい遺産ですね!

最後はこれで〆!

安倍宗任さん、

ここに導いてくれてありがとう!

 

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