2018/12/22

岡城(大分県竹田市)中編

 

山城の運命

戦国時代までの城と言えば、

多くは「山城」でした。

山に城が作られた理由は守りやすく

攻めにくいからでしょう。

しかし関ヶ原の戦い以降、

世の中に戦がなくなってくると

戦う城としては優れていても、

都市の政庁機能として、使いにくい山城は

次々と破却されて、藩主が政治を司るのは、

平地のお城や陣屋といった城下への行き来が

便利な場所になりました。

そんな山城の中でも、

岡城は、明治維新までの長い間

戦国期から継続して

政庁の機能を果たしたのです。

平和な時代になっても破却されず

そのまま使われたのは、

標高は300mちょっとあるものの

比高はわずか90m位しかなく、

城下との行き来が、

極めて便利な山城だったのも

江戸時代になっても使われた

理由の一つかもしれません。

本丸へ

大手門や西の丸御殿などの散策で、

既に2時間近く費やしていたのですが、

ここからがまた見どころ満載なのです。

ここに素晴らしい

鳥瞰図(ちょうかんず)があります。

僕が鳥瞰図という名前の

意味を知ったのは、この数年の事。

ちなみにウィキペデイアには

「飛ぶ鳥の目からみたように

見える、というのが鳥瞰の語義」

と書かれています。

江戸時代にも多くの鳥瞰図が描かれていますが、

ヘリコプターもドローンも無かった時代、

よくそんな絵が描けたものだと感心します。

曲線の石段付き石垣。

屋敷の門。

石垣は切込み接ぎの

近代的(といっても江戸時代)な

構造です。

中川但見屋敷跡。

城代屋敷の石垣。

城代屋敷跡。

本丸は工事中・・・

と思いきや、

数日前から歩行が可能になっていて、

かなりラッキーでした。

太鼓櫓門の石垣。

鐘楼跡。

太鼓櫓門を入ると

本丸の石垣も見えてきます。

高石垣の上からの景色。

本丸石垣。

精密な作りなので、

今まで損傷もなく(修理はあったかも)

綺麗に残っているのでしょう。

登城。

本丸。

江戸時代ここには、

御殿が建てられていました。

本丸の隅には岡城天満神社があります。

1586年、岡城が薩摩軍に攻められた時、

落城しなかった事にあやかり

「落ちない」=「受験に落ちない」

要するに「合格」という意味合いで、

受験生にも人気があるとか。

手水舎は新しいものの

手水鉢には「文化」の文字が見え、

奉納から200年以上経つ

かなり古いものです。

拝殿。

左が拝殿、右が本殿。

平成16年に修理再生された

拝殿の拝殿の天井絵は三人の

女流画家の作品です。

拝殿の正面には金網が掛けられた

お面?のようなものが・・・

何でしょうか?

説明を見つけられず、

かなり大切なものというのしか

分かりませんでした。

本丸にある案内板。

岡城の全景がわかる素晴らしい絵ですね。

右上に中川久昭と書かれているのは、

江戸末期~明治初期の

12代藩主、中川久昭の時代に

この絵が描かれたからでしょう。

それとも中川久昭が描いたのかな?

本丸跡の石碑。

ここには、荒城の月の歌詞が刻まれた

石碑も建っています。

作詞は土井晩翠(ばんすい)。

作曲した瀧廉太郎の方が

大分県に馴染みが深いので

瀧廉太郎推しの岡城ですが、

作詞した土井晩翠は仙台の人、

なので荒城の月は、青葉城を

思い浮かべて作った歌詞かも

知れませんね。

なかなか終わらない(笑)岡城の旅、

続きは後編です。

 

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