岡崎城(愛知県岡崎市)後編
天守再建考
僕がお城に興味を持ち始めた数年前、
天守(天守閣)は全国に12城ある
現存天守(江戸時代に作られた天守)以外、
昭和時代に作られた「まがいもの」だからと
あまり魅力を感じませんでした。
今思えば随分と頭の固い話ですが、
いくつもの城を巡っていると、
「やっぱり目に見える方が楽しい」
そんな考えに変わってきて、
今では、模擬天守も大歓迎、
大好きになっています(笑)
今、各地のお城で、
櫓や、門などの再建が計画または、
すでに実行されています。
天守に関しては、歴史的資料通りに
再現しないといけないという
規則もあるようなので、
昭和時代のように観光目的で、
気軽に建てるという訳にはいきませんが、
それはそれで、いいと思っています。
あるがままを楽しむ。
人生そのものも同じかな?(笑)
天守内へ
本丸の散策を終えた僕たちは、
いよいよ天守内へと向かいます。
入口。
天守台の石垣は、
田中吉政時代(1590年頃)の
古いものがそのまま使われています。
(案内による)
それにしても田中吉政の名前は
本当に各所で見ますが、
Wikipediaによると、
「吉政は岡崎城を近世城郭に整備した。
そして城下の町割には7つの町を
堀で囲む田中掘を築造した。
また、西側の低湿地の埋め立てを行った。
さらに、本来岡崎の郊外を通っていた
東海道を岡崎城下町の
中心を通るように変更し、
「岡崎の27曲がり」といわれる
クランク状の道に整備した。」
このように書かれていて、
後年、筑後国(今の福岡県の一部)を
治めた時も柳川を始め、
様々な都市整備で、
今に名を残したことも大いに頷けます。
入場した階と、最上階は撮影OK。
入口付近には、天守台内部の
石垣が見え、古い木材の展示もあります。
一階から三階までを通した
心柱の礎石。
お城の心柱は珍しく、
岡崎城以外で心柱を使ったのは、
姫路城くらいだと
案内には、書かれています。
そして、館内を見学しながら最上階へ。
最上階。
床には岡崎城の縄張り図があり、
川を天然の外堀としている事が、
よくわかりますね。
天守北側の景色。
右上にフューチャーされた
「大樹寺」というのが、
家康が天下を平定する
きっかけとなったお寺です。
Wikipediaを要約すると
「桶狭間の戦いで今川軍は潰走、
松平元康(徳川家康)は、
追手を逃れて手勢18名とともに
大樹寺に逃げ込んだ。
しかしついに寺を囲んだ
追撃の前に絶望した元康は、
先祖の松平八代墓前で
自害して果てる決意を固め、
第13代住職登誉天室に告げた。
しかし登誉は問答の末
「厭離穢土 欣求浄土」の
教えを説いて諭した。
これによって元康は、
生き延びて天下を平定し、
平和な世を築く決意を固めたという。」
この経緯から、
今も大樹寺と岡崎城の間に
視界を遮る高さの建築物は
建てられないそうです。
大樹寺・・・見えたかな?(笑)
西側の景色。
南側の景色。
東側の景色。
顔出しパネル。
妻は本多忠勝をチョイス。
様になっているかな(笑)
顔出しパネルって、あると楽しいし、
やってみたくなるけども
顔の穴が二つあるにも関わらず、
一人だけが顔を出す場合、
何だか間が抜けますが、
「顔可動式」だとそんな残念感はなく
逆に楽しさ倍増ですね。
石垣、胞衣塚、産湯井
天守を楽しんだ後は、
城内の散策を再開です。
埋門。
本丸埋門北袖石垣。
案内によると江戸時代前期に
造られた石垣です。
なかなか良い撮影スポットが見つからない
岡崎城天守ですが、
ここからなら結構いけるかな?
胞衣塚。
家康の胞衣塚かと思ったら、
昭和11年に公園整備の一環で
建てられたもでした。
東照公産湯井。
岡崎城二の丸能楽堂
家康が生まれたとされる場所に
建てられた能楽堂です。
エントランス。
能を愛した家康公の魂が、
ここに来て観覧したり
能を舞ったりしているかもですね!
大手門
最後に行ったのが大手門。
お城の表玄関ですが、
後回しになってしまいました(汗)
城内から。
家紋は古い三つ葉葵です。
場外へ。
大手門の表。
何故か松を植えるのが好きな
岡崎城の管理者さん。
両脇の松が成長した時、
天守同様、大手門も撮影が
難しくなるかも・・・
な~んてそんな心配は無用、
僕が死んだはるか後でしょうから(笑)
今日の電車
天守の南側から景色を眺めていたら
緑に映える赤い電車が来ました。
菅生川の鉄橋を渡る名鉄電車。
なんか絵になりますね。