大洲城(愛媛県大洲市)中編
150年の時を超え合体
お城を観光の目玉にするのには、
多種多様な意見があり
歴史的、文化的価値を主張する人、
観光による潤いを優先する意見など
どれが正しいと判断するのは、
永久に出来ないでしょう。
ただ、大洲城は今ここにあります・・・
大洲城が木造で復元された
要素の一つに天守の両脇に続く
2つの櫓の存在もあったと思います。
どちらも江戸時代末期の建立で、
国指定重要文化財となっていて、
天守が再建されたことにより
約150年の時を超えて、
天守を真ん中に両手を繋ぐように
新旧3つの建物は再会したのです。
天守内へ
一通り外観を堪能したあとは、
いよいよ平成の木造天守内へ向かいます。
この古写真や、江戸期の「雛形」と
言われる木組模型など、
豊富な資料のお蔭で木造での
再建が可能になったことが
案内されています。
大洲城正面。
左から、高欄櫓、天守、台所櫓。
何だか仲良く手を繋いだ
親子のようにも見える?かな(笑)
入城は台所櫓から。
文字通り台所の機能が備わった櫓です。
やはり「腹が減っては戦が出来ぬ」かな?
エントランスに置かれた
靴を入れるロッカー。
このデザイン、なかなか趣向を凝らして
素敵ですね!
10分の1に縮小した
復元天守の木組み雛形。
江戸期の雛形同様、
1000年後、再建する時
役に立つかも?(笑)
鉄砲隊・・・。
嬉しそうに鉄砲撃っています(笑)
鉄砲狭間からの射撃態勢再現。
大洲城築城の再現ジオラマ。
ここが台所櫓と天守の境目。
なんか、ワクワクしますね!
思った以上に明るい天守内。
「完全復元」している感が、
ひしひしと伝わって来ます。
天守築城のジオラマ。
心柱。
天守1階柱の産地案内。
地元の木々に混じって、
高知、大分、長崎などで伐採された
木材も使われています。
ここまで細やかに刻銘に記録して、
来館者に案内するところが、
おもてなしとして、素晴らしいと思います。
天守大きさくらべ。
徳川家康の江戸城は、
圧倒的なスケールなのが
わかります。
後から作った秀吉の大阪城が、
信長の安土城と
全く同じ高さなのは、
秀吉が信長の遺児や遺臣に
遠慮して?信長以上の高さの天守を
造らなかったのかも知れません。
明治時代、ここは桃林だったという写真。
上の古写真では、
天守が無くて、両脇の櫓が
寂しそうに見えるのは、気のせい?(笑)
天守窓から高欄櫓を臨む。
大洲城の駐車場横に現存する
「下台所」という江戸期の建物が
監獄として使われていたことの案内。
天守に来る前に実際見た下台所。
やはり監獄に流用できそうな
雰囲気ではありますね(笑)
内観。
軍事施設としてのお城だった証拠、
はしごのような階段も完全再現。
最上階。
肱川(ひじかわ)。
この名前、大洲城の高石垣建設時、
人柱として生き埋めになれた「おひじ」
という女性の名前という伝説があるようです。
確かに昔は「人柱」という手法は、
多く使われていて、
奇しくも同じ「ひじ」という名前の
大分県の「日出(ひじ)城」で
僕たちは、実際に人柱の遺骨が、
発見されたものを見ていますので、
この伝説は事実の可能性は高いでしょう。
正面は「冨士山」。
「とみすやま」と読み、
大洲富士と呼ばれています。
北側。
高欄櫓へ。
屋根の断面模型。
復元のあゆみ。
ここにはお城全体の
ジオラマがあります。
天守や櫓の内部は、
展示物をしっかり吟味していて、
多くを置かず、建築や空間を楽しめ、
現代の想像だけでは難しいものは、
ジオラマを作って体験してもらうという
実にメリハリのきいたもので、
見ていて楽しい限りでした。
石落としの説明。
敵が攻めて来た時に
ここから石やう○こを落とします。
攻めて側から見た石落し。
ただ、思うのは、
江戸末期の再建で、
何故戦国期の戦闘機能が
必要だったのでしょう。
それとも時を経て、
石落しは、装飾的なものに
なっていたのかも?
高欄櫓から北側の景色。
櫓に「高欄」が設置されているのが、
ゴージャスです。
櫓内部。
やはり木の色も150年の
時を感じさせます。
ここまでで、
内部の見学は終わりですが、
大洲城は天守周辺以外に、
昔の縄張りに散らばって
存在する江戸期の櫓があり
簡単にはコンプリート出来ません(笑)
今日の注目
はしごのような階段にあった注意書き。
実際にちょんまげを引っ掛けた
武士もいるでしょうね(笑)