奥州市埋蔵文化調査センター・後編

遊びは学び
奥州市埋蔵文化調査センターでは、
様々な楽しい体験を企画されています。
出張体験隊なるものもありますね。
「めざせ!歴史・考古学博士」
クイズに答えて博士を目指すもので、
これで触発されて
将来本物の博士になる子供も
出てくるかも知れません。
将来を見据えた
奥州市埋蔵文化調査センター、
素晴らしいと思います!
展示室(後編)
ここから展示室の後半へ。
「地鎮の長頸瓶」
「政庁北東の北方官衙で発見された。
一辺4.2mの四角形の四隅とその中央に、
杯でふたをした長首の壺が埋められ、
中央の穴には2個の杯が供えられていた。
壺の中に納められたものは
残っていなかったが、
五穀などが入れられたのかもしれない。
天、地、四方の神を鎮め、
平安を願った古代びとの祈りが聞こえる。」
内容からして、
現代の地鎮祭とほぼ同じかも?(笑)
「機能」
「胆沢城が造営されたのは
延暦21年(802)。
9世紀後半には主要な建物を
瓦葺とするなどの施設整備が行われた。
また、10世紀にはいると、
官衙施設の建て替えや拡張などが目立ち、
胆沢城の機能が膨張したようである。
この胆沢城の終わりは、
10世紀後半と考えられる。
その後は「鎮守府」の名前だけが残り、
平泉の藤原時代へと引き継がれたようだ。
この間のおよそ150年間、
陸奥国北半地域の
支配拠点として胆沢城が存在した。」
短いようで長い胆沢城の現役生活、
1000年後の現代に、
再登板(遺構として)されています(笑)
「胆沢城の機能」
朝廷の蝦夷支配の役割を担った胆沢城では、
年中行事のほかに、
蝦夷を招いて飯を食わせたり
酒を飲ませたりしての懐柔などが
行われていたようです。
欧米列強が植民地支配の手段として、
現地人の「長」を支配層として
優遇したのに似ていますね。
「胆沢城の機構と人々」
府掌(ふしょう)というトップの下、
従五位上から従八位までの
官位を持つものが統治し、
その下に陰陽師、医師など、
またその下には兵士などの
下部組織で構成されています。
「胆沢城の蝦夷管理」
ここ、めっちゃ興味深い部分です(笑)
「夷俘(あまり従わない蝦夷)を
支配するので、
殺生が日常茶飯事であり、
年二回蝦夷を招くために
狩や漁をしないといけないので、
鎮守府の仕事そのものに
殺生の原因がある。
だからこれを滅罪するために
「吉祥悔過の法会」を行なった。」
めっちゃ人も魚も殺したけど
全部なかった事にしてね!
そんな法会ですね。
めっちゃ簡単に言うと、
神社での大祓と同じようなものでしょう。
また、蝦夷を招く際には、
巨大な門を潜らせ、
その先の両脇には屈強な兵士を並ばせ、
無言の威圧をしていたと言うのも
先ほど書いた植民地支配の構図に
似ています。
鬼瓦と共に、
埋蔵文化調査センターのツートップ、
「漆紙文書」で、
ここには「食い物よこせ」と書かれ、
人類の歴史は、
腹減りとの戦いの歴史というのが
よ〜く理解できます(笑)
「戸番」をもつ兵士歴名簿。
兵士一人一人の
名前、年齢など詳しい名簿に
着任したか否かの印が付けられています。
古代人も日本人らし句(笑)
几帳面そのものです。
「欠勤届」。
二人の兵士が病気になったので、
休んだそうです・・
これも今も昔も同じなんだと納得(笑)
「郷(ムラ)」
胆沢城を中心にして
各所に蝦夷支配の郷(ムラ)を置いていたが、
時を経て、北方の地域への
国家の直接支配は放棄されたようだと
書かれています。
江戸時代に於いても
蝦夷地(北海道)を統治するのが
難しかったのと同じなのでしょうか・・
「ムラの暮らし」
家は竪穴式住居で、
倉庫と考えられる掘立柱建物や
井戸が作られ文字を書いた土器も
発見されれていると書かれていて、
文字を除けば、
なんか吉野ヶ里遺跡を連想させます。
地方に関しては、
弥生時代も平安時代も大して変わらない
暮らしぶりだったのかも知れません。
「律令領民とエミシ」
ここで興味深いのが
以下の記述です。
「弘仁13年(822)、常陸国の俘囚、
吉弥侯部小槻麻呂が、
「自分たちは帰化してから20年が経ち、
ようやく生活のめどもたちましたので、
「編戸の民」となって
課役を納めさせてください」
と申し出た。20年前といえば、
阿弖流為(アテルイ)が
500余人の仲間と共に降伏した年で、
小槻麻呂もこのなかにいたのかもしれない。
蝦夷としての特別あつかいを拒否し、
良民になることを願った小槻麻呂に対し、
「公戸(かんこ)に付けることは認めるが、
調庸などの課役は徴収しない」
という回答であった。
重い課税負担に苦しんだ一般農民からすれば、
願ってもないことだが、
彼ら蝦夷にとっては、
差別以外のなにものでもなかった。
岩手に残った蝦夷も同様と思われ、
特に内国から辺境に
移住させられた農民も含め、
不穏な状況をかかえていたものであろう。」
重税を課せれれても一般民になりたい・・
免税されてショックを受けるとは、
隷属した苦しい経験があればこそのもの。
それを考えれば、
僕も税金を払わせていただく事に、
「人として認めてくれてありがとう!」
な〜んて
めっちゃ感謝しないといけませんね?(笑)
「奈良・平安時代の料理」
これはヘルシー!(笑)
「信仰」
「行基などにより庶民の間にも
仏教の教えは広まったが、
前時代からの純日本的な土俗的信仰や
密教・道教の呪(まじない)的な信仰が、
人々の暮らしを支えていたようだ。」
このように記されています。
こりゃ〜今と同じ、「形代」ですよ!
神社でよくあるのは「紙の形代」ですが、
これは国家の祭儀で使用されたものだと
書かれています。
今と同じように
これを使って「穢れはなかった事に」
していたのでしょうか(笑)
「人面墨書土器」。
「この顔を書いた壺や甕に
小石などを入れて紙で蓋をし、
穴をあけて息を吹き込む。
息を吹き込むことで
自分にとりついていた病気を
餓鬼や胡神に背負わせ、
水に流したともいわれている。
胆沢城外郭南門の溝からも、
顔が書かれた杯が出土している。」
これは、
まんま神社の大祓などと同じですね!
これがルーツだったのかな?
人面墨書土器二つ。
お顔アップ。
確かに書かれていますね!
そしてここからが
展示室最後の盛り上がりです(笑)
阿弖流為(アテルイ)の顔とも言われる、
「悪路王 首像」。
背後には小野篁(おののたかむら)の
詠んだ歌が記されています。
「服しては 叛く蝦夷の働きに
北辺の城の守りは息(やす)まらず
つわものは朝餉にも心和まず
暁の寒さは馬の睡りすらおこす
川面に立つ霧は
城門を冷たくぬらし
角笛の清烈は風にのり漂う
ほの白い月影は城の大路に輝き
その先はつわものの営舎へと流れる
機をうかがい まつろわぬ民々も
この秋の夜の明るさに何を想うや」
あの世とこの世を行き来し
閻魔大王の補佐をしていたという小野篁、
Wikipediaによると
アテルイたちが降伏したのと同じ年、
延暦21年(802)の生まれで、
13歳の時陸奥守に任ぜられた父と共に
陸奥国に行っているんですね!
だからこんな歌も詠めたのでしょう。
そして、
アテルイとの奇縁を感じてしまいます。
悪路王=アテルイじゃない
という事で、
似てるけども新たなイメージ像が
2000年に発表されています。
が・・
僕たちはどうしても悪路王への
愛が止まりません(笑)
正面アップ。
側面。
似てるかな?
結構いい線行ってます(笑)
おまけ
展示室を出ると
壁際に飾ってある板碑を発見。
レプリカかな?
アテルイの時代ではなく
鎌倉時代の板碑で、
追善供養や逆修(生前供養)を
目的としていたそうです。
「胆沢城なきあと、
この場所が中世前期の霊域であったことが
考えられます。」
このように書かれています。
なんか、
ここで降伏した蝦夷たちの霊も
一緒に鎮魂していてくれるかのような、
板碑ですね・・・
最後はこれで〆!
この後は胆沢城跡へと向かいます。