永山布政所跡(大分県日田市)

 

「天領」日田

江戸幕府の直轄領であった日田は、

「天領日田」などと呼ばれていますが、

この幕府直轄領を指す

「天領」という呼称は、

明治になって付けられたもので、

江戸時代には無かったものだそうです。

Wikipediaによると

「日田陣屋は、

日田代官所もしくは

永山布政所という

西国筋郡代役所である。

ただし、

永山布政所という名称については、

昭和11年(1936年)以降に

千原豊太が記した

「豊後日田永山布政史料」に

初めて記述が認められるもので、

江戸期では

一般に日田御役所と呼ばれていた」

という事は、

このブログの題名も本来であれば、

「日田御役所跡」が正解かも?(笑)

月隈公園

永山布政所は、永山城から堀を隔てた

一帯にあった代官所です。

その永山城の麓にある三の丸は

月隈公園として整備されていますので、

まずは、ここから散策を開始します。

公園から見た月隈山。

山上にある石垣も見えますね。

陰徳倉碑(いんとくそうひ)。

案内。

「文化十四年(1817年)

日田の代官に着任した、

塩屋大四郎正義は善政と言える

業績を残した人で、

その一つが「陰徳倉」である。」

「従来の米を備蓄する制度は

年貢と同じ形式で農民の

反発も多かったものを

町の富裕層から寄付という形で集め、

米を4棟の倉に備蓄し、

この倉を自ら「陰徳倉」と名付け、

文を起こし、

豆田町48名、隈町45名の

寄附高、氏名とともに碑に刻んだ。」

このように書かれています。

「陰徳」とは、

「人に知らせずひそかにする善行」

という意味なのに

命じられて寄附したのにも関わらず、

倉には、「陰徳」という名前を付け、

その碑に名前を刻むなんて、

代官の人心収攬のセンスは抜群ですね!

きっと富裕層の心に響いたはずですから。

「淡窓五首ノ一」碑。

咸宜園(私塾)を主催した

江戸時代の日田出身の学者、

広瀬淡窓の一文を刻んだ石碑です。

永山布政府跡

月隈公園から堀を渡り、

永山布政所跡を散策。

しかし、今は民家が立ち並び、

往時の面影はありません。

この案内のみで、

ここが永山布政所だった事を

知るだけなのか・・・

と思っていたら、

この一角の反対側(東側)に

詳しい案内版が建ててありました。

永山布政所跡の東側一角。

案内板。

永山城との位置関係。

これはめっちゃ分かりやすいですね。

永山御役所(永山布政所)と

豆田町の位置関係。

寛政期(1800年前後)の地図には、

「永山御役所」という

名前で載っていますね。

最後に永山城跡と

永山布政所跡のコラボで〆。

 

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