六所宮(福岡県筑後市)後編
泣く子と殿様には・・
「正平十二年(1357)建立、
日本最古の夫婦恵毘須像」
このフレーズで、
六所宮への参拝を決めました(笑)
ところが・・・
ここにはその一年前、
正平十一年(1356)建立の
供養塔、「正平塔」もあったかも
知れないのです・・・
(要するに無いという事)
六所宮から無くなった原因は、
江戸時代末期、
久留米藩の殿様が、
自分の別荘に正平塔を置きたいと
神社から移設してしまったからです。
その代わりに
殿様からは「代替品」を寄進されていて、
それが現在六所宮にある正平塔です。
Wikipediaで調べると
この殿様、
暗君の代表みたいな人だったようで、
結局、別荘に移設した本物は、
逸失してしまい、
現在もどこにあるのか分かっていません。
神社さんの説明には、
事実のみが書かれて、
殿様の悪口などは一切ありませんが、
僕が読み解くと、
こんな感じに思えます。
泣く子と地頭・・
いえ、
泣く子と殿様には逆らえないという
一つの例なのでしょう。
(あくまでも個人的な感想です)
正平塔
御社殿横の境内社に連なるように
正平塔は建っています。
「九州南北朝の正平塔」
内容を抜粋すると
次のようになります。
「1336年(延元元年)多々良浜の戦い。
菊池武敏と足利尊氏の戦いで、尊氏勝利。
1351年(正平2年)
懐良親王、菊池武光、
筑後溝口城の少弐軍を攻撃し、
8年ぶりに奪還し、
南朝軍の快進撃が始まる。
1356年(正平11年)
羽犬塚六所宮境内に
刻字のある二輪塔を建立。
後世、人はこの供養塔を正平塔と称する。
1359年(正平14年)
筑後川の戦い(大保原の戦い)
懐良親王、菊池武光の南朝軍勝利。
「大刀洗」の地名の由来。」
その後、
南北朝の統一などが書かれています。
一番右側が正平塔で、
こちらの説明には、
冒頭で書いたことが、
優し~く案内されています。
案内を書き出すと、
「正平塔(正平十一年建立)
(西暦1356年)
この塔は、南北朝時代における
南朝方の将士戦没者の
冥福を祈るための供養塔と考えられる。
製作者は1350~1357年の間、
肥後中部から筑後南部にかけて
石造を製作した筑後馬篭の大工、
藤原助継と推定される。
ただし、現在の石碑は1844年、
久留米藩、第九代藩主、
有馬頼徳公が建立したものである。
本来の正平塔は、
久留米城の東北に広がっていた
(藩主の)別荘ともいわれる
柳原園に移されたと
歴史書に書かれているが、
現在の所在は不明である。」
このようになります。
殿様のことはさておき(笑)、
本物の正平塔を造った
藤原助継さんの作品には、
以前訪問した、
駛馬天満宮で出会っていますので、
かなりの人気石工だったのでしょう。
改めて殿様が建立した
江戸時代の正平塔をじっくり見ると、
恵比寿様が浮き彫りされています。
正平塔横の猿田彦大神は、
天明九年(1789)の建立。
左端の猿田彦大神は、
安政三年(1856)の建立。
気になるのは、
その先に鎮座する
カラフルな大黒様ですが(笑)
御神木
次は御神木の大クスを
改めて確認。
樹齢は400年前後かな?
根本は空洞で、
なんとなく神祠っぽい感じです。
やはり大きさの比較写真は必須(笑)
日本最古の夫婦恵毘須
次は六所宮で一番気になっていた
夫婦恵毘須像へ。
大クスと羽犬塚恵毘須の御社殿。
中には石祠が5つ、
大切に納められています。
石祠群に向かって右側、
安永九年(1780)建立の燈籠と
奥には「恵毘須宮」と刻まれた
明和二年(1765)建立の燈籠の残欠。
このようにしてまでも
古いものを大切にし、
残してくれた事に感謝です。
こちらは現代の奉納(笑)
「上町」の恵毘須さん。
こちらが、日本最古、
正平十二年(1357)建立、
「中町」の恵毘須像です。
失礼して
中を撮影させていただきました。
650年以上も前、
これを彫った人は、
何を願っていたのでしょう・・・
「下町」の恵毘須さん。
「春日町」の恵毘須さん。
「下の町」の恵毘須さん。
左側の安永九年建立の燈籠。
奥に建つのは燈籠の残欠。
日本最古の夫婦恵毘須像、
像自体にも感銘を受けましたが、
それを後世に伝えていく、
宮司さんや氏子さん、
そして、崇敬者のお気持ちに
大いに心打たれた参拝でした。
神仏習合の名残
六所宮すぐ隣にあるのが、
こちらのお堂です。
左右の燈籠は、
天保七年(1835)建立。
首が斬られた跡があるのは、
廃仏毀釈の名残かも・・
お堂の中。
左から不動明王、朝観音、
弘法大師(2体)、薬師如来。
案内などはありませんが、
江戸時代までは神仏習合ですから、
六所宮と同じ境内にあったかと思います。