佐賀城本丸歴史館・展示/江藤新平

 

新平ちゃんファン

江藤新平と共に、

佐賀戦争(佐賀の乱)で処刑された島義勇

彼は札幌の町を構想し、

今もなお札幌市民から愛されています。

しかし、地元佐賀での知名度も

顕彰度合いも札幌の比ではなく、

彼の銅像が佐賀に建立されたのは、

札幌の銅像建立から

遅れること50年の事でした。

これをもって地元佐賀に於ける

島義勇の「復権」が、

ある程度為されたのです。

そして、島さんと同じく

日本の近代化に大きな功績を

残したにもかかわらず

明治政府による佐賀戦争の断罪で、

その「光の部分」が隠れている江藤新平、

彼の復権はまだまだのようです・・

そんな江藤新平復権の狼煙を上げるが如く、

佐賀城本丸歴史館では、

江藤新平の常設展示をされていました。

ここをじっくり体験すれば、

もはや新平ちゃんファンに

ならざるを得ません。

結果、妻は江藤新平の

缶バッジを買っていましたし(笑)

パンフレット

展示パネルを完コピするのは

中身が濃すぎて無理なので、

パンフレットで新平ちゃんの

素晴らしさを書き出してみます。

「今こそ、

江藤の真実をあなたが受け取る時だ」

「維新の十傑」や

「佐賀の七賢人」と称される

江藤新平(1834〜1874)は、

初代司法卿として国民の権利を守ための

近代的な裁判制度を導入したことなどが

有名ですが、

江藤の功績はそれだけではありません。

三権分立に基づく国家制度の設計や、

民法、国法といった

法典の編纂、国民皆教育の導入など、

現在にまでつながる日本の礎を築きました。

江藤は、明治政府の中枢である

参議にまで昇り詰めますが、

「明治六年政変」で政府を去ることになり、

翌年の佐賀戦争で刑死という

非業の最期を遂げました。

その後、

明治22年(1889)の大赦により

罪が許されると、

帝国議会での表彰建議を経て、

大正5年(1916)に正四位が

追贈されて名誉回復がなされました。

「人民のために」という信念を貫いて

明治日本の新たな国家づくりに

尽力しながらも、佐賀戦争により

霞んでしまった江藤新平の功績や

人となり等を、

四つの視点から解き明かし、

その真相に迫ります。」

「本当にすごいんです、江藤新平。」

このコピー、素晴らしい!

「海賊王におれはなる」、

これと同じくらいのインパクトです(笑)

この実績、

確かに凄い!凄すぎます(笑)

「佐賀戦争とは」

「佐賀の乱(佐賀戦争)は、

明治7(1874)年2月に

「江藤が佐賀で起こした士族反乱」と

位置付けられてきました。

しかし、

江藤は本当に自らの意思で

「反乱」を起こしたのでしょうか。

江藤は、佐賀戦争の1か月前、

副島種臣(佐賀)、後藤象二郎(高知)、

板垣退助(高知)らとともに、

基本的人権と人民の自立を目指す、

日本初の近代政党「愛国公党」を

結成しました。

そして、

国民が選んだ議員による国会開設を求める

「民選議員設立建白書」を公表し、

一部の権力者が政権を運営する

当時の体制を批判しました。

その翌日、江藤は東京を離れ、

佐賀に帰郷しますが、

それは、政府への不平不満を募らせて、

不穏な空気が高まっていた

佐賀の士族を説得し、

騒動を収めることが

目的であったと考えられます。

しかし、江藤帰郷の翌日に、

明治政府のNO.2の岩倉具視が

高知県士族に暗殺されかけるなど、

士族の動向に過敏になっていた政府は、

江藤の帰郷を危険視しました。

(一方の江藤は、一旦佐賀に入ったものの、

今は説得が難しいと考えたのか、

長崎の親戚宅に移動し、

静養、舟遊びを楽しむことも

あったようです。)

そして、

江藤が長崎で過ごしていた

明治7(1874)年2月3日、

福岡県庁(当時は国の機関)から

内務省(警察・地方行政を管轄する機関。

トップは大久保利通)に

「佐賀県下不穏」を伝える電報が届くと、

政府は翌4日に「出兵命令」を出し、

新任の佐賀県権令(国の官僚)岩村高俊を、

軍隊を伴って

佐賀県に赴任させることにしました。

この実力行使を前提としたやり方に

挑発されて佐賀の士族は決起し、

結果、2月13日に佐賀入りした江藤は、

首領に担ぎ上げられたと言われています。

ここで重要なのは、

政府が出兵を決定した2月4日の時点では、

江藤は佐賀の士族と

合流すらしていなかったということです。

このことについて、

明治大正期の歴史家・久米邦武は、

明治44(1911)年6月20日の

佐賀新聞に

「佐賀事変の如きは、

全くの江藤君の与らぬ所で、

海嘯(津波)にさらわれたようなものである。」

と述べ、

また、

歴史家の大久保利謙氏(大久保利通の孫)は、

自身の論文中で「佐賀征韓党

(江藤を指導者とした団体)としては、

全く政府から売られた決起であった」と

述べています。

つまり、江藤は「国会開設」による

体制変更を目指していた真っ最中であり、

武力蜂起による解決を想定して

動いていませんでした。

また、政府から一方的に

戦争を仕掛けられた佐賀士族は、

自衛の戦い以外に

選択の余地はなかったのです。」

これで、

新平ちゃんの概略はOKですね(笑)

展示

「佐賀の八賢人おもてなし隊」の

歴史寸劇で感動後、

ふっと気づいたのが

こちらの案内です。

控えめな「江藤コーナー」の案内。

これがなければ、

完全にスルーしていたので、

やはり「案内」「導き」は重要です。

エントランスでは

江藤新平さんが出迎えてくれます。

ここからは各パネルの内容を

超訳して書き出していきます。

パネル1、2の展示部屋。

1−1江藤新平の源流

「貧しい武士の家庭で生まれ、

さらに父の仕事もなくなるという環境の中、

教育熱心な母のお陰もあり、

藩校弘道館に入学、

楠木正成、正行父子を祀る

「義祭同盟」を主宰した

枝吉神陽の薫陶を受け、

また藩主鍋島直正からも期待され、

蘭学にも励んだ。」

1−2江藤新平の決意

「義祭同盟の中で最も親交があったのは、

大木喬任と中野方蔵でしたが、

中野は坂下門外の変で、

関係者と疑われ獄死。

この一件がその後の江藤の原動力となる。

そして、脱藩。

脱藩中の人脈が

その後の佐賀藩を救う事に。」

2−1江藤新平の才能開花

「戊辰戦争では、

佐賀藩が幕府側だと疑われた際、

江藤新平が脱藩中だった頃の人脈を生かし、

また、副島種臣も同じく奔走、

結果、疑いは晴れることに。

また上野戦争で江藤は、

彰義隊の鎮圧において、

寛永時に立てこもる彰義隊に対して

佐賀藩所有の最新鋭の

アームストロング砲を用いることを

藩主鍋島直大に建言、

早期鎮圧に貢献しました。

関東偵察で江藤は、

旧幕府の町奉行所に赴き、

税制や刑法関連などの重要書類を接収。

「治国の要官は会計・刑法の両官」とする

江藤の考えが表れた行動でした。

また東京奠都を提案、

提案、徳川慶喜の処分、

失職者の救済などを提案しています。」

2−2江藤新平の飛躍

「江藤は明治2(1869)年11月7日、

中弁に任ぜられ、

これ以降、政府の要職を歴任します。

君主権の強化を国体の理想とするも

統治権の集中は弊害を生むことから

「三権分立」さらに藩を廃して

「郡県制」など30項目からなる

「建国の制度」を構想し、

岩倉具視も江藤の意見を採用しています。」

「江藤は民法制定を「天下第一の急務」と

考え、民法は私人相互間の

権利義務関係を規律するもので、

封建的身分制度を排し、

四民平等の近代社会を実現する上で、

最も強力な手段でした。

また、

司法権の独立・司法事務の統一を目指し、

明治4(1871)年7月9日、

江藤の提案と同じ形で司法省が新設され、

翌明治5(1872)年には江藤が

初代司法卿に就任しました。」

 

パネル3、4の展示部屋。

3−1初代司法卿江藤新平の功績

「江藤は明治5(1872)年4月25日に

初代司法卿に就任し、直後から

一気呵成の司法改革ともいうべき

近代的な法治国家を作り始めます。

司法省は官のためではなく、

「民の司直」であり「人民の権利の保護」が

最大の職責だという自覚を

全省に促しました。

判事・検事・代言人(弁護人)などを

制度化し、傍聴もできる

現代の司法制度の根幹を作ったのです。」

3−2信念を貫く江藤新平と政府内での軋轢

「汚職を摘発して公正な裁判をするほど

正直に信念を貫こうとする江藤は、

様々な反発にあいます。

国政を司る参議の一人として、

政府の中枢で

国政を担う立場になったのですが、

ここでもまた、誠実な江藤と

周囲の人間との軋轢は増すばかりで、

結果が「明治六年の政変」です。

ただその実態は、征韓派の西郷隆盛と

非征韓派の大久保利通の対立から起きた

政変ではなく、

朝鮮との国交正常化使節を

派遣すべき(西郷)か否(大久保)かで、

揉めた結果、

大久保の「今朝鮮に使節を送れば

戦争になる恐れがあり、

使節派遣を延期すべき」と言ったのに対し、

江藤が反論すると、

大久保はなぜ戦争に直結するかという理由を

具体的に説明できなかったと言います。

一旦は西郷隆盛を使節として

派遣が決められたものを

大久保らの画策により

覆されたのが実態とも言われています。」

江藤新平のメモ書き

江藤新平は様々な場面で

多くのメモ書きを残しています。

江藤新平の辞表

「江藤が大蔵省に抗議するため

提出した辞表の草案です。

全長3メートルに及ぶ長大な文書には、

国民の権利義務を法的に確定し

(国民の位置を正す)、

安心して生活できるよう

司法卿の役職にかける

江藤の熱い想いが伝わってきます。」

この辞表は

展示パネル3−2の

「大蔵省との攻防」で出されたものです。

「明治6(1873)年度の

国家予算編成をめぐり、

大蔵大輔・井上馨は、新規事業のために

予算増を要求した

司法省・文部省・工部省に対して、

財政難を理由に大幅減としました。

その一方で、山城屋和助事件で

会計に損害を与えた陸軍省に対しては

満額近くを認めたことから、

江藤は1月24日、

長文の辞表(司法卿を辞するの表)を

正院(明治政府の最高機関)に提出し、

抗議しました。

これは、「(国の)富強の元は、

国民の安堵にあり、安堵の元は、

国民の位置を正すにあり」に象徴される

意見書ともいえる内容でした。

この辞表の趣旨じゃ三条実美を動かし、

正院の再調査の結果、

大蔵省の見積が過少であることが判明。

江藤の辞表は受理されず、

井上馨は面目を失う結果となりました。」

江藤さん、

超がつくほど正義感が強く、

真面目な方だったのでしょう・・・

4−1佐賀戦争を捉え直す

「定説では、明治7(1874)年

「江藤が佐賀で起こした

士族反乱(佐賀の乱)」と

位置付けられているが、

江藤が帰郷した際、

中央政府は新任の佐賀県権令岩村高俊を

軍隊同行で赴任させるなど、

言わば政府から売られた喧嘩に

江藤を筆頭として、

対応せざるを得なくなった、

言わば自衛の戦争であったというのが、

佐賀戦争の真実ではないでしょうか。」

ここでの注目は右下です。

「江藤とともに散った佐賀の人材」

「明治7(1874)4月13日、

反乱の首謀者として

江藤新平・島義勇等13名が

処刑されました。

その中には、江藤の推薦により

文部省の第一回海外留学生に選ばれ、

明治4(1871)年

岩倉具視使節団の外遊で

通訳を務めた香月経五郎や

明治2(1869)年に

欧米へと留学した山中一郎などがおり、

若く優秀な人材が

失われることとなりました。」

勿体無い人物を失ったものです・・

歴史を振り返れば、

吉田松陰など超優秀な人は、

不遇の最後を遂げ、

誰とは言いませんが、

まあまあ優秀な人が、

世の中を上手く泳ぎ切るという

イメージがあります(笑)

4−2江藤新平の名誉回復

「江藤新平の名誉回復は、

息子の顕彰運動や、

衆議院議員、的野半介の

前参議司法卿江藤新平表彰二関スル建議」

そして、「大赦」により、

名誉回復が行われるも

西郷隆盛のように、

銅像が建てられる事もなく

名誉回復には時間を要した」

確かに、名誉回復、

令和までの150年ほど、

時間がかかっていますね(笑)

江藤の功績。

江藤新平所用ピストル。

「江藤南白 下」(1914)によれば、

江藤が佐賀戦争後に

土佐で捕縛された際の所持品に

6連発の「小銃」一丁が

含まれていたという。

この小銃が

まさに本資料であるかは不明だが、

彼がこのような銃を護身用として

携帯していた可能性は高い。」

「江藤新平関連年表」

ここまでで展示はおしまいです。

知れば知るほど、

のめり込む(笑)新平ちゃんですね。

缶バッチ

缶バッジ好きの妻は売店へ。

缶バッジ購入中・・・

各種ある賢人バッジの中から

妻が躊躇なく選んだのがお二方です。

江藤新平。

裏には経歴も記されています。

やはり島義勇は外せません。

やはりこの方は蝦夷(北海道)です。

外に出て、

記念のツーショットで〆。

楽しすぎた佐賀城本丸歴史館、

これにて完了です。

 

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