西教寺(滋賀県大津市)前編
猿の町坂本
坂本の町には
お猿さんの二大聖地があります。
一つは、比叡山の鎮守である
日吉大社の神猿(まさる)、
もう一つが、
ここ西教寺の護猿(ござる)です。
パンフレットの道案内もお猿さん(笑)
「坂本は昔から
さるが見守っているんだ!」
こんなに「さる、さる」と書かれていると、
坂本城主の明智光秀を討ち取った、
豊臣秀吉の顔までも
一緒に想像してしまいます(笑)
ただ、秀吉の幼名が日吉丸で、
あだ名が猿だったという親近感もあって、
焼け落ちた日吉大社を
実際に再興したのも秀吉ですから
「神猿」、「護猿」とともに
三猿としてあげてもいいかも?
いや、秀吉は人間だったか~(笑)
大本坊へ
西教寺には幾つかの伽藍がありますが、
まずは大本坊を目指します。
参道両脇には、
いくつもの「坊」が建ち並んで、
その多くは登録有形文化財です。
その中の一つ徳乗坊。
穴太衆が築いた石垣(多分)。
突き当りには勅使門が見えますが、
一般人の僕たちは
勅使門は通れませんから右から迂回(笑)
寺門をくぐってさらに奥へ。
羅漢さんと説法石。
本堂、大本坊へと続く、
槻坂(けやきざか)。
写真はお寺でいただいた資料の一部、
十六世紀前半に描かれた比叡山絵図。
信長の焼き討ち前の西教寺ですが、
すでに「槻坂」が描かれてる事が
紹介されています。
「光秀公も上り下りしたであろう」
このように書かれていますので、
僕たちは上書きして、
その足跡を消したかも?
ごめんなさい!(笑)
大本坊
槻坂を上りきり大本坊に到着。
大本坊。
まずはここから伽藍内部の散策を開始。
「麒麟がくる」
「戦国ワンダーランド 滋賀 琵琶湖」
やはり光秀ゆかりの寺、
盛り上げてくれますね!
まずは、廊下橋を渡って本堂へ。
と言っても、
本堂内は、撮影出来ませんので、
写真はありません。
ただ、こちらの案内のように
お猿さんがいらっしゃいました。
西教寺と護猿(まもりざる)の由来。
「猿が念仏の鉦(かね)を打ち
上人の身代わりを勤めて西教寺を救った」
こんなお話からここでは猿は護猿(ござる)
と言われ尊ばれていて、
本堂には写真のお猿さん(銅像?)が
いらっしゃったという訳で、
冒頭に書いた、
「お猿様の町、坂本」たる所以です。
客殿
豊臣秀吉の伏見城にあった旧殿で、
慶長三年(1598年)に
大谷刑部吉隆(吉継)の
母が寄進したものです。
想像するに、
この頃大谷刑部吉隆(吉継)は、
癩病の症状が重く、
顔も隠していたころ・・・
息子の回復を願う母心が、
この寄進に繋がったのかも
知れません・・・
廊下から撮影した客殿全景。
母心を考えながら眺めると、
単に古くて素晴らしい建築ではなく、
愛情という目に見えないものまでが
伝わってきますね。
枯山水の庭。
客殿正面。
ここも廊下橋で繋がっています。
橋を渡り客殿へ。
写真撮影は禁止ですが、
それぞれの部屋には、
襖絵(伝狩野永徳)が
描かれていています。
右が客殿、左が本堂。
小堀遠州作の客殿庭園。
客殿を寄進した母の心とは裏腹に、
大谷刑部吉隆(吉継)は、
寄進から2年後、関ケ原の戦いで、
石田三成の盟友として戦い、
戦死してしまいましたが、
その母心は、形となって、
令和の今も僕たちに
思いを伝えてくれています。
・・・と最後まで勝手な想像で
客殿の拝観は完了(笑)
書院
廊下で繋がった書院。
駕籠の展示。
明智光秀関係の展示。
明智光秀公資料室。
凄いものばかりあるのですが、
撮影禁止なので、
いただいた冊子から少し抜粋します。
「4供養米寄進状」
要約すると
「自軍の戦死者を弔うため
足軽も含め身分の上下区別なく、
一人当たり壱斗弐升の
供養米を西教寺に寄進している。」
このような内容です。
テレビで見たことがありましたが、
本物を目の前で見られて感動です。
光秀公が愛宕神社に寄進した花瓶。
これも本物が見られて大満足(笑)
中庭。
阿弥陀如来二十五菩薩石像。
案内を要約すると
「天正十二年(1584年)、
滋賀県の住人、富田さんが、
愛娘を亡くし、
その供養のために作ったもの」
このように書かれています。
関係ないけど、天正十二年は、
小牧長久手の戦いの年ですね。
廊下に配置された石像。
450年近く前のものです・・・。
沢山あるので、まとめて参拝。
平成時代に作られた
書院裏庭園。
再び大本坊へ
本堂、客殿、書院と巡って、
再び大本坊へ。
大本坊庭園。
こちらは江戸時代初期に
作られています。
そして、最後に行ったのが、
大本坊の一角にあるこちらの部屋。
明智光秀公 煕子夫人 御位牌奉安所。
光秀公。
煕子さん。
合掌・・・
(西教寺後編に続く)