清龍寺(浜松市)前編

 

徳川姓

徳川家康の嫡男、信康は、

「岡崎三郎信康」と呼ばれるように

「徳川」の姓を使っていません。

これは、徳川幕府成立後、

将軍家と、

尾張、紀伊、水戸の御三家以外は、

「徳川姓を使っちゃダメ」という

習わしになったからのようで、

信康の菩提寺であるここ青龍寺でも

「岡崎三郎信康」と紹介されています。

信康堂

青龍寺は、信康が自刃した

二俣城から程近い場所にあります。

エントランス。

右側の

本田宗一郎ものづくり伝承館が目印。

はじめに信康の木像が

安置されている信康堂へ。

右端の「信康山青龍寺」と

刻まれた寺号標、

「信康山」の文字に、

あ〜ここで信康さんのお墓が

大切にされているんだな〜と実感。

「岡崎三郎の信康」

案内を書き出すと、

以下になります。

「信康は徳川家康の嫡男として、

戦国時代の

永禄二年(1559)三月六日、

家康人質の今川家支配の駿河で生誕。

母瀬名(築山御前)は関口義弘の娘で、

今川義元の姪に当たる。

信康は永禄十年(1567)五月、

信長の娘徳姫(五徳)と結婚、

共に九歳。

今川の血を引く築山御前と、

今川を滅ぼした織田の娘の

嫁舅の確執と、若夫婦不仲から、

徳姫は天正七年(1579)

父信長への十二箇条の手紙の中で、

築山御前が武田と内通と書かれ、

それが原因で信長は信康の切腹、

築山御前の殺害を要求、

同年九月十五日、

信康は幽閉先の二俣城で切腹。

介錯役の服部半蔵正成は、

何としても、刀を向けられず、

検視の天方山城守通綱が、

介錯したと伝えられる。

享年二十一歳。

信康の類い稀な能力の、

将来を恐れた信長厳命と伝う通説のほか

諸説はあるが、安泰・太平の世を築いた

家康草創の頃の、信康夭折は

徳川三百年の礎となった運命の

若武者であったと言うことが

できるのではないか。」

家康と対立したので殺されたなど、

信康さんの自刃の真相は、

定かではありませんが、

ここに書かれているように

天下泰平を目指した家康の

「人柱」的な存在に思え、

だとすれば、

「運命の若武者」として、

見事、大役を果たされています・・・

お堂の彫刻に注目。

右が、家康の干支「寅」で、

左が、信康の干支「未」となっています。

あの世では、お互いが見つめ合い、

仲良く暮らして欲しいという

作者の意図があるのでしょうか・・

チェーンソーアートで制作された信康像。

(武者姿)。

こちらは、

公式行事に出席する姿を

イメージして製作されたもの。

「お賽銭は龍の口へどうぞ」

賽銭投入完了(笑)

井戸櫓

青龍寺には、

二俣城にあったとされる井戸櫓が

再現されています。

左が井戸櫓。

近影。

反対側の高所から。

これが川沿いに建てられ、

二俣城で使う水を汲んでいたようです。

瀧不動尊

次に、この界隈の神仏へ。

澄みきった美しい池の真ん中に

鎮座するのは、弁天様でしょうか?

御祭神、ご本尊は

わからないまま

ここに来られたことを

感謝して参拝。

塩地蔵尊にご挨拶。

右の、

「是より瀧の不動道」と刻まれた標柱、

昔っぽいが、いつのものかは不明。

弁天様?の裏に回り

不動尊参拝の前に清瀧の瀧へ。

たまたまですが、この写真、

3匹の鯉が太陽に照らされ、

影とともに6匹に見えてますね!

もしかして瀧のご利益かも?(笑)

正式に?

瀧のご利益をいただく妻。

これでさらにパワーアップしたに

違いありません!

瀧の不動道の石段で、

瀧不動尊へ。

瀧不動尊に参拝し、

瀧のご利益を感謝。

勝手にご利益貰っています(笑)

お隣の大黒天神殿に参拝。

この前には金網に守られた

二体の像があります。

大黒様。

恵比寿様。

どちらも素敵なお顔で、

損傷はありません。

防犯のために金網が設置されたのは、

「初代」が盗まれたからかも

知れませんね。

(後編へ続く)

 

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