2021/12/26

清洲城(愛知県清須市)後編

 

清須と清洲

8年ほど前、

三谷幸喜監督の映画、

「清須会議」の表題を見て、

「清洲じゃなく清須なんだ~」

そう思いました・・・

が、特に調べもせず(笑)

そして、時は流れ、

遂にその真相を知る事となったのは、

清洲城天守入口の案内でした。

慶長15年(1615)までは清須、

その後、400年近くにわたり

平成17年(2005)清洲、

そして、またもや清須となっています。

ここでは、

これを基準に展示要素に関する

漢字を変えているとのこと。

のっけから分かりやすい案内に、

ちょっと感動です(笑)

天守のデザイン

清洲城周辺を楽しんだ後は、

いよいよ天守内へ。

犬山城的な雰囲気の外観を持つ

清洲城の模擬天守。

ちなみにこちらが犬山城の天守

入口の位置や、

石垣の色まで似ていますね!

勝手な推測ですが、

犬山城を模したのは、

戦国時代の雰囲気も伝わり、

正解だったのではないでしょうか。

入城。

1階

天守内部の撮影は、

1階と4階はOK

2階と3階はNG。

まずは、一階からスタート。

いきなり信長様がお迎え(笑)

鎧の説明。

実際に信長公が着ていたものを

再現していて、

4人の製作者の合作です。

ここには説明はありませんが、

ネットで調べると、

テレビドラマなどで見る、

西洋甲冑とマント姿の信長は、

フィクションらしく、

西洋甲冑自体は、

本能寺の変から少し経ってから

日本に入って来たそうです。

中世の清須。

ここで肝となるのは、

「守護代・織田家の台頭」でしょう。

案内を超訳すると

「織田氏は、室町幕府の三管領である

斯波武衛家の守護代家であり、

尾張守護代となった織田氏は、

弱体化した守護・斯波氏に代わり

戦国大名として名乗りを上げます。

その後、

岩倉織田家(織田伊勢守家)と

清須織田家(織田大和守家)に

分裂し抗争しますが、

清須織田家の三家老の一人であった

弾正忠家の織田信定と、その子信秀は、

優れた才智と経済力を背景に

主家をしのぐ力をつけ、

信秀の代には活発な

軍事行動によって

尾張統一を勧めていきました。」

このようになります。

いわゆる、教科書で習った

「下剋上」というやつですね。

ここからは一気に桶狭間、

本能寺、関ヶ原、

そして

城下町ごとそっくり名古屋に移った

「清須越」まで。

その後・・・大政奉還まで。

明治維新以降は割愛です(笑)

2階

ここは写真は撮れませんので、

パンフの一部を抜粋。

右の「清須城物語」という映像、

なかなか見応えありました。

3階

こちらも写真撮影はNG.

左側の火縄銃体験シアター、

「戦術革命 長篠・設楽原の戦い」は、

前日、実際に現地を訪問していた事で、

感動もひとしおでした(笑)

4階

遂に最上階に到着。

内部。

金鯱や金箔瓦のレプリカ。

信長公吉例太鼓と信長像。

桶狭間に出陣前、

信長が舞ったとされる

幸若舞の敦盛

廻廊に出て真下を撮影。

石庭の雰囲気が、

なかなか良いじゃないですか!

新幹線と、北西の景色。

ズームすると伊吹山がよく見えます。

こちらは、

「清洲城からくり望遠鏡」。

案内には、

「その昔、お城が

あったとされるあたりに

天守閣の姿を重ねて見ることができます」

こう書かかれ、

実際やってみると、

確かに分かりやすい!

東には名古屋駅高層ビル群が、

現代のお城のようにそびえています。

駐車場方向。

北側。

最後にツーショットで、

清洲城攻城は〆。

 

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