観音寺城(近江八幡市)新発見の大石垣

 

伏線回収

観音寺城の旅では、

幸運にも偶然が重なり、

最近発見された新たな大石垣を

大いに堪能する事が出来ました。

あとで考えると、

これは半年間に渡り張られた

三つの「伏線」を一挙に

回収できたからに他なりません。

【伏線その1】

半年前、観音寺城を目指した

滋賀旅行では雨が強く、

お城の訪問を取りやめた事。

その時は、

即興で行き先を変更し、

瀬田の唐橋

龍王宮秀郷社金戒光明寺など、

素晴らしい出会いがあり、

結果的に「恵みの雨」

となっています。

【伏線その2】

観音正寺の受付で、

年配の男性三人組を見かけた事。

この時は、何をする人かは

全くわからず、

やり過ごしています(笑)

【伏線その3】

観音正寺本堂の販売所で見つけた

元三大師がんざんだいしの魔除けを授与いただいた事。

普段は何も買わない僕なのに、

何故かこの時だけは

どうしても欲しい衝動を抑えきれなく

このプラスアルファーの

時間があったからこそ、

後の伏線回収に繋がっています。

再会

平井氏屋敷跡大石垣本丸

観音寺城のメインスポットを

滞りなく巡る事が出来た

達成感を味わいつつ、

次なる散策地へ向け、

一旦観音正寺の境内へと戻ります。

もうすぐお寺という地点。

この先を右に折れた時、

冒頭で書いた三人の男性が、

一本の木に向かって

案内板のようなものを

括り付けようとしている瞬間に

出くわしたのです。

妻に、

「熊出没、危険!

みたいな注意喚起の案内でも

取り付けているのかな?」

なんて話しながら

横目で見て通り過ぎようとした時、

その案内が熊とは全く無関係な事に

気付いたのです!

木に括り付けられた案内板。

男性三人のお話では、

最近の調査で見つかった

新たな大石垣への道が整備されたので、

今、その案内を付けているとのこと。

それを聞いた僕たちのテンションは、

もうこれ以上ないくらいの

爆上がりです!(笑)

行きがけには無かった案内板(笑)

この案内を拡大し

「大石垣」を追加してみると

こんな感じになります。

「伝後藤邸」の

黄色い矢印の先、

白い直線で表したのが、

新発見の大石垣で、

大手道の側面、

観音正寺のすぐ真下に位置します。

新発見の大石垣

男性達に

「行っても良いですか?」

そう聞くと、

「少し危険ですが、

足元に気をつけて

行かれてください。」

そう言いながら、

大石垣までの行き方を

詳し〜く説明してくれたのです。

案内板の横からスタート。

崖を下る感じですが、

土嚢なども置かれて、

足場的には問題はありません。

下へ。

「立入危険」。

でも

「立入禁止」では

ないんですね〜(笑)

なんか、看板を設置した人の

お城好きへの優しさを感じます。

ここからさらに一段下へ。

竹の切り株などに注意しながら

下って行きます。

お〜凄い!

まるで登り石垣のようですね!

恐らくこの石垣は、

伝後藤邸の西側面部分でしょう。

左が伝後藤邸、

右が伝進藤邸の石垣。

ちなみにこの両氏は城主を支えた

筆頭クラスの家老で、

戦国後期、後藤氏は

言われなき謀反の罪を着せられ、

城主の命で謀殺され、

その後六角氏は衰退しています。

それはさておき、

この石垣が切れた先を左に曲がると

見えてくるのがこんな光景です。

お〜〜!!素晴らしい!

新たな大石垣と初対面に

感激もひとしおです。

正面から。

高さは5〜6mはあるでしょうか。

伐採されたばかりの

素朴な雰囲気もいい味出してます(笑)

動画でも撮影。

さらに奥から撮影。

右側には「伝後藤邸・東側通路」が

見えていますので、

行ってみる事に。

石段もしっかり残っていて、

とにかく、

興奮しかありません(笑)

妻からの指摘で、

大石垣は、石段の右(東)側にも

ずっと連なっていることがわかり、

さらに興奮(笑)

石段を側面から撮影。

伝後藤邸は何段もの

曲輪になっているのが、

よく分かります。

さらに上へ。

450年もの間、

よく残っていたものだと

改めて石垣の耐久性に驚き、

そんな石積み技術を持っていた

佐々木六角氏が、

いかに力のある守護大名だったのかを

思い知らされますね!

織田信長に蹴散らされ、

城を捨てて逃げてしまったという

「敗者」としてのイメージは、

ここからは全く浮かんで来ません。

東側の大石垣の始まり部分。

今後、伐採が進めば、

こちらの大石垣も正面から

見られるようになるかもです。

東側通路を下って帰路へ。

せっかくなので、

ここでツーショット完了。

観音正寺へ

佐々木六角氏の偉業を目の当たりにし、

相変わらず興奮しながら(笑)

観音正寺を目指します。

伝後藤邸(右)、と

伝進藤邸の間を通り、

山を登ります。

下から見上げる石垣も

また乙なものですな〜(笑)

ようやく

男性達と出会った案内板の地点に到着。

まさか、こんな体験ができるとは、

前回の旅で雨が降って、

本当に良かった〜(笑)

(続く)

 

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Comment

  1. 城野幸男 より:

    詳細なレポートありがとうございます。
    12月7日にお会いした3人の老人のうちの一人です。
    観音寺城|本谷プロジェクトの名のもと、整備活動をおこなっています。
    http://hontani.anvil.co.jp/
    東側の中段石垣もだいぶ良く見えるようになりましたので、
    近くに来られた時にはぜひお立ち寄りください。

    • tabibito1722 より:

      城野幸男様

      ありがとうございます!
      山本と申します。

      まさか、
      ここにコメント頂けるとは!
      夢見たいですよ!

      皆様にお会いできたこと
      改めて感謝しています。

      これからも観音寺城の発展
      ここらからお祈りしています。

  2. 久郷良夫 より:

    城野リーダーにくっついていた老人2です。写真も上手く編集されており喜んでいます。
    六角氏本家は信長と同盟を結び、信長兄信弘の娘を六角義郷が娶りました。そして信長の近江侵攻前には、本家だけでなく被官の永原氏、佐治氏、後藤氏、進藤氏、池田氏、平井氏、九里氏等が同心し、六角氏分家の箕作氏、蒲生氏、青地氏、山岡氏、山崎氏、馬淵氏等が叛旗を翻しましたが、箕作城が堕とされると、箕作氏は逃亡、馬淵氏は滅亡、その他は降参しました。その時の観音寺城は「元の如くたておかれ」(信長公記)、安土築城後は詰めの城として改修されました。

    • tabibito1722 より:

      久郷良夫様

      コメントいただきありがとうございます。
      山本と申します。
      あの日、あの瞬間、お三人様と出会えたこと
      奇跡的だと今も夢のようです!

      観音寺城落城の経緯を詳しく教えてくださり
      心から感謝しています。
      安土城の詰めの城としての改修があったとは、
      初めて知りました!

      皆様のお力により
      ますます観音寺城の魅力も増すことと存じます。

      これからの観音寺城並びに
      皆様の益々のご発展心からお祈りしています。

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