2021/12/26

設楽原歴史資料館(愛知県新城市)前編

 

ネット掲載可能の確認

設楽原歴史資料館には、

次にような掲示があります。

館内撮影に関することで、

これほどまで、詳しく、

そして分かりやすい表示は、

あまり見かけません。

しかも

「個人ブログなどの掲載はOK」。

来館者目線の優しい案内に、

思わず感動し、

この時点で、

「こんなに親切な資料館だから

きっと展示内容も素晴らしいはず!」

そんな期待にワクワクしてしまいます。

エントランス

鉄砲の一斉射撃で有名な、

長篠、設楽原の戦いは、

徳川家康に寝返った

奥平信昌の長篠城

武田勝頼が奪取するため、

大軍で包囲攻撃した事が

きっかけです。

その長篠城と周辺の散策

思った以上の時間を費やし(汗)

当初訪問予定にしていた

長篠城攻略の武田勝頼本陣である、

医王寺山はパスして、

設楽原歴史資料館へと向かいます。

資料館が位置するのは、

設楽原、織田・徳川軍の馬防柵から

東の武田軍側の一角。

手前の銅像は

平成28年に建立されたもので、

幕末、アメリカはじめ各国と

開国の条約締結をした、

地元、設楽(したら)氏の子孫、

岩瀬忠震(いわせ ただなり)です。

設楽原歴史資料館の展示では、

この人物について大フューチャーしてあり、

副産物的に、

新たな知識が得られたことは、

実にラッキーでした。

館内入ってすぐにある、

「設楽原からのメッセージ」

この内容も、

長篠の戦い&岩瀬忠震。

富士山の帽子をかぶった

武田勝頼公。

「紅糸威六十二間小星兜」

と書かれています。

富士山本宮浅間大社に奉納された

兜と甲冑で、

調べてみると本当に富士山形の

前立(まえたて)だったそうです。

まさか青色では無いでしょうが、

勝頼公、

オシャレな兜持っていたんですね!

家康公の兜持ちをしている妻(笑)

展示室

エントランスで楽しませて貰った後は、

展示室へ。

いきなり、「最大級の鉄砲」の展示に、

またまたテンションアゲアゲ(笑)

これ、人を殺すのではなく、

狩猟用です。

突き当たると、展示室は、

左右に分かれています。

まずは、左側の

設楽原の戦いコーナーから。

切り絵。

「設楽原の戦い」 年表。

ここで注目は家康の状況です。

元亀元年(1570)

家康、信長を支援。信玄と絶つ。

元亀三年(1572)12月22日

家康、信玄に敗れる。

天正元年(1573)

信玄、野田城攻略・信玄没(4月12日)

天正三年(1575)

徳川・織田連合軍、設楽原で大勝

この間、織田信長といえば、

1570年に姉川の戦い、

1571年、比叡山焼き討ち、

1573年、足利義昭を放逐し、

室町幕府滅亡。

同じ年、朝倉氏、浅井氏を滅亡させる。

1574年、長島一向一揆鎮圧と

諸問題の多くが片付いているのです。

そして、1575年、

心と兵力に余裕を持って

信長も長篠へ・・・

こんな一部分だけ見ても、

武田信玄の死ぬ時期をはじめとし、

徳川家康の慧眼と幸運は、

天下人たる資格を

「天」が与えていたとしか考えられません。

日本最古伝説の火縄銃(信玄砲)。

信玄を狙って撃ったから信玄砲。

あくまでも伝説です。

長篠の戦いの前哨戦。

右側の説明には、

(1575年)武田勝頼は、

1万5千の軍を率いて、三河に侵入し、

5月1日、長篠城を取り囲みました。

5月6日 武田軍、吉田城を攻撃。

5月8日 武田軍、長篠城に戻る。

5月13日 瓢郭、や弾正郭を落とす。

5月14日 深夜、鳥居強右衛門と

鈴木金七郎の二人が長篠城を脱出。

(援軍を確認)。

このように書かれています。

吉田城といえば、

当時、家康の重臣、

酒井忠次が城代だった城で、

長篠から南側、30Km近くの場所。

もし勝頼が吉田城に目もくれず

長篠城だけにターゲットを絞り、

一気呵成に攻めていれば、

攻略出来たかも知れません。

歴史に「もし」はありませんけどね(笑)

右側の説明、

「信長の岐阜発進」

一部抜粋すると

「信長は出陣するにあたり、

2つの準備を行っています。

1つはたくさんの鉄砲と

撃ち手を用意するよう

細川藤孝、筒井順慶など

京にいる家臣に命令しました。

もう1つは、設楽原に馬防柵を作るために、

大量の丸太と縄を用意させ、足軽に

柵木1本、縄1把を持たせました。

途中、熱田神宮で戦勝祈願を行い、

14日夕刻には岡崎に到着し、

徳川軍と合流しています。」

このように書かれています。

これほどまでの用意周到さが

勝利に結びついたのでしょう。

説明と、

馬防柵など連合軍の陣地模型。

左の説明を抜粋すると

「川沿いに馬防柵を作ることによって、

一つの大きな城を作ったと考えられます。

川が堀となり、

柵は塀の役割を果たしています。

柵の中には、戦いの隊形を保ったままの

大部隊を置くことができ、

守りながら攻めるという戦い方を

生かすことができます。」

な~るほど~!そうだったんだ~

確かに強力な陣城ですよね!

信長はやはり天才だ(笑)

三段構えは横から見ると、

高さも三段になっています。

「決戦の火ぶた、鳶ヶ巣山」

先に訪問した長篠城から見た

鳶ヶ巣山方面の武田軍の陣地。

ここを設楽原の決戦前に

徳川軍の酒井忠次が、

武田軍を奇襲しています。

この銃声と燃え上がる炎を見た

勝頼たちは、大いに動揺したはず、

連合軍は鉄砲だけで

勝ったわけじゃないのです(当たり前か?)

嘉永六年(1853)に描かれた

設楽原布陣図。

この下に織田信長が、

細川藤孝に送った

感謝状があったのですが、

写真はNGだったので、

説明だけ抜粋します。

「鉄砲と撃ち手を沢山集めてくれて

本当にありがとう!」

こんな内容です。

信長さん、思った以上に

気遣いの人ですね!

ミニジオラマ。

戦いの後、長篠城主、

奥平信昌は、家康の長女、亀姫を迎え

新城城を築き居城としたと書かれています。

新城城の御殿一部分のジオラマ。

設楽原の戦い図。

これ、何と小学生の卒業制作ですよ!

素晴らしい!素晴らしすぎ!

戦場跡に建てられた石碑。

中身が濃すぎて、

なかなか書き終わらない、

設楽原歴史資料館、

何とか長篠の戦いは完了(笑)

(後編に続く)

 

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