2021/11/13

鳥居強右衛門の墓(愛知県新城市)

 

鳥居強右衛門

長篠城界隈で一番目にするのは、

鳥居強右衛門(とりいすねえもん)が

磔になった旗印(絵)です。

武田軍に包囲された長篠城から

川を潜って抜け出し、

岡崎城まで走り、

家康・信長の援軍を確認し、

すぐさま引き返して長篠城近くで

武田軍に捕まり、

「城に向かって援軍は来ない」

そう言えば命を助けると言われながら

「援軍は来る、2~3日頑張れ!」

と呼びかけ、

味方を裏切らず、磔にされた人です。

(Wikipediaから拝借し180度回転)

この絵は、

「落合左平次道次背旗」という名前で、

長篠で鳥居強右衛門の

勇気ある行動を見た

落合さんが感動し、

自分の旗印として作らせたものです。

落合さんがこれを描かせていたからこそ

鳥居強右衛門も、

より有名になり顕彰され、

今があるのかもしれません。

鳥居強右衛門の墓(新昌寺)

馬場美濃守信房の墓に参った後は、

鳥居強右衛門の墓と

鳥居強右衛門 磔死の碑へ。

赤印をしたところが目的地。

馬場さんのお墓近くには、

中央構造線 長篠露頭があります。

タモリさんならば、

興味津々で見に行くでしょうが、

僕たちは100m歩く気力は無し・・

ひたすら鳥居さんのお墓を目指します。

長篠大橋。

橋から見た豊川(寒狭川)。

ここから10分ほど歩いて、

ようやく新昌寺のお墓に到着です。

道路から見たお墓。

生垣が巡らされ

かなり大規模ですね。

お墓の正面。

Wikipediaを抜粋すると

次のようになります。

「当初、強右衛門の墓は

新昌寺に建立されたが、

慶長8年(1603年)に

甘泉寺へ移設された。

新昌寺の墓碑は、

宝暦13年(1763年)に

新しく建立されたもので、

1919年(大正8年)に墓所の

大規模な拡張工事が行われている。」

このように書かれ、

文中の甘泉寺の墓については、

「山腹にあるこじんまりとした墓所。

織田信長が建立させたと伝えられる

古い五輪塔や現代の案内板が見える。」

このように書かれています。

お墓正面。

足軽の墓としては、

類を見ない豪華版!

お参り。

真ん中の焼香炉には、

鳥居の絵があしらわれていますが、

拡大した写真を撮り忘れています(汗)

鳥居さんだから鳥居の絵・・・

という意味なのか、

家紋が鳥居だったのかは不明です。

宝暦13年(1763年)に

新しく建立された墓碑。

墓碑の側面には、

「願主 有海邑」とあります。

有海邑(村)は、

鳥居強右衛門が、

武田軍に捕まった場所。

江戸時代中期になっても

有海村の人々は、

鳥居強右衛門に

強い思いを抱いていたんでしょう。

平成24年に高速道路建設で、

鳥居強右衛門の墓の横に

移設されているのが、

武田軍四将の墓。

勿論ここにもお参りしましたが、

時間が無いので

新昌寺のご本堂には参拝せず(汗)

お寺さん、お許しを~・・・

鳥居強右衛門 磔死の碑

次に、鳥居さん最後の地、

磔死の碑へ。

お墓からまたまた歩いて10分、

ようやく看板が見えてきました。

案内。

冒頭に書いた鳥居さんの活躍が

書かれています。

豊川(寒狭川)沿いに建つ石碑。

石碑に一礼。

裏面の碑文は、

鳥居強右衛門の主君、

奥平信昌の子孫である、

奥平昌恭氏の撰文です。

奥平氏の繁栄は、

武田を裏切り、家康につき、

その後、

奥平信昌が、長篠城を守った事と、

家康の実の娘、亀姫を正室とした事。

江戸時代の奥平氏は、

譜代大名クラスの待遇で、

明治まで続いています。

武田の人質として、

裏切った代償として殺された

奥平信昌の妻、「おふう」と信昌の弟は、

この繁栄を見て恨んだのか、

それとも良かったと安堵したのか・・・

弟は大分県、中津城内に鎮座する

奥平神社の神様として

今でも祀られていますし、

きっと後者でしょう・・・

 

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