田中正造旧宅(佐野市)母屋
贅沢
田中正造旧宅での散策、
一度目はガイドさんの
お話を集中して聞き、
二度目は僕たち二人だけで、
撮影主体に巡り、
結果2周することになりました。
コンパクトに凝縮された施設だからこそ
時間にとらわれず、
こんな贅沢ができたのです(笑)
さるすべり(百日紅)
ガイドさんと共に隠居所から外へ。
最初に案内して貰ったのが、
母屋手前の「さるすべり」です。

多くの棒に支えられながらも
枝葉も花も元気いっぱいで、
樹勢はすこぶる旺盛ですね!
そして傍には、
「放水銃」が装備されています。
恐らくこの放水銃は、
母屋や隠居所への
備えでもあるのでしょう。
いずれにしろ安全・安心の
「さるすべり」である事は、
間違いありません。

「田中正造を見て育った
さるすべり(百日紅)」
「苗木は隠居所と同時期に
植えられたと推定されます。
他の庭木は樹齢を全うして
若木と交代しましたが、
この木だけが長寿を保ち、
夏には美しい花を咲かせています。」
このように記されています。
正造さんが見たものを
自分たちも見ている・・・
なんとも嬉しいじゃないですか!

幹は空洞だらけ・・・
なのにこの生命力、
間違いなく妻好みの一本です(笑)
便所
ガイドさんがいなければ、
ここまで便所には、
注目することはなかったでしょう(笑)

左側は表門その横に潜り戸、
そして便所・男子小用、
右端が大用(笑)ですが、
ここでの注目は男子小用の便器です。

ガイドさん曰く、
「これ有田焼なんですよ!」
これには僕も妻もびっくり!
有田焼の便器なんて、
人生で初めての体験ですよ。
正造さもこれを使っていたのかな?(笑)
ガイドさん、
わざわざ便器まで案内してくれて、
本当にありがとう!
土蔵
次は母屋を通り越し土蔵へ。

パンフレットによれば、
「今回の解体修理では
建築時期を明らかにすることが
できなかったが、
母屋と同じころ建てられたらしい。
しかし正造が結婚した
1863(文久3)年とその後も
何回か修理をしたことが分かり、
出入口を移動した跡も見受けられた。」
このように記されています。

土蔵の内部は、
古いの農具の展示場ですね。
母屋
次に母屋へ。

土蔵を背にして母屋裏側を撮影。

パンフレットは、
以下が記されています。
「正造が生まれ育った家屋で、
建築の構造、手法から
19世紀の初めごろの建築と考えられる。
病弱の父を案じつつ
不在がちだった正造は、
この家に医師を迎い入れ
村の診療所としても役立たせた。
昭和初期になって、
母屋は藁葺屋根から瓦葺にするなど、
新築に近い修理が施された。
平成の保存修理工事では、
建築当初の姿に復元を図ったが、
屋根は防災と維持管理上の見地から、
藁葺を型どった銅板葺にして
再現することになった。」
我が家を診療所にして医師が常駐とは、
まさに一石二鳥ですよ。
正造さんのアイディアに拍手!

ガイドさんから
藁葺での復元を見送った理由が、
「鳥が藁を運んで云々・・・
だから火事になるので
ちょっと危険な・・云々」
こんな説明を受けたのに
断片的な記憶しかありません・・
その時は「そんな理由か!」
なんて二人して感動したのに、
やはり「記憶」じゃなく
「記録」しなきゃですね(汗)
そして母屋の縁側で、
二つほど気になるものを発見!

「ハンポウ」!
禅宗寺院で食事や儀式の
時間を知らる道具ですが、
正造さんちでも
使ってたんだ〜!
もしや正造さんも
この木槌で「コン・コン・コン!」
なんてやってたかも?(笑)

藍玉と乾燥した藍の葉。

「佐野藍105年ぶり復活」の新聞記事。
2014年なので、
これは今から11年前の記事ですが、
現在では、全世界に向けて
発信されているようです。

土間。

母屋の天井は3種類。

よしず天井。

旧宅修理工事、
ビフォーアフター。

板の間。

すのこ天井。

正造さん遺品の自筆文字入り籐椅子。
文字見るの忘れた〜残念!(汗)

「田中正造は明治7〜9年、
石塚村の造酒屋兼酒屋、
蛭子屋の番頭をしていた。
この時、
馬の手当てを怠った馬子に
説教して酒を売らず、
主人から商売に向かないと言われて
退職したという。」
このように説明があります。
逆にこんなことがあったから、
田中正造さんの「道」は、
大いに開けたのでしょう!

座敷は「さおぶち天井」。

正造さんが書いた「愛」の文字。
案内には、
「この「愛」の文字は、
川俣事件で負傷した
山崎銈次郎宛書簡に同封されていた
田中翁直筆の複製。
田中翁の門人、嶋田宗三は
「田中翁の全人格を一語で表せば愛」
と述べていた。」
このように記されています。
確かに、
正造さんの生き様の根本は「愛」、
間違いありません!

正造さんが一番好んでいたという
自身の写真。

座敷横の板の間。

田中正造分骨地の紹介。
僕が気になっているのは、
右から二番目の「田中霊祠」です。
ここでは神様として
祀られているのでしょう。

「田中正造日記帳
(明治四十五年六月十七日)」
この部分を拡大したのが
大きなパネルになっています。

「田中正造日記
明治45年(1912)6月17日
○真の文明ハ山を荒さず、川を荒さず、
村を破らず、人を殺さゞるべし。
○古来の文明を野蛮二回らす。
今文明ハ虚偽虚飾なり、露骨的強盗也。
明治になり、政府は欧米に追いつこうと
急激な「近代化」を優先させた。
その結果「生命軽視」する
政府・社会を正造は厳しく批判し、
私利私欲に走る人心の荒廃を憂いた。」
最初の言葉は、
田中正造のものとして、
一番有名なものですが、
これを記したのが、
たまたま僕の誕生日と同じ、
6月17日ということに、
妻ともどもめっちゃご縁を感じ、
またまた感動しました!
やはり僕はここに来て、
この日記と出会う運命?
だったのでしょうかね!
同じ6月17日生まれ仲間の
二宮和也と辻希美にも
是非、ここに来て
ご対面して欲しいですものです(笑)
田中正造旧宅、
盛り上がったところで散策完了です。