田中正造の墓・雲龍寺(館林市)

 

信仰の対象に・・

足尾鉱毒事件で有名な田中正造。

この方の足跡を辿るのが、

今回の旅の目的でしたが、

その中でも更にメインとなるのは、

田中正造の「お墓参り」です。

ただ彼のお墓は、

知られているだけで6ヶ所もあり、

全部行くのは現実的ではなく、

僕たちはその中の

2ヶ所にお参りする事にしました。

どうしてこんなにお墓が多くあるのか?

それは、

我が身を捨てて鉱毒事件に立ち向かい

義人と称えられた田中正造が、

ある意味、

信仰の対象になったからでしょう。

しかし、

それは田中正造本人の気持ちとは、

真逆の行為だったかも知れません・・

正造さんは顕彰碑さえも拒んだというほど、

己の生き様について、

微塵も誇りたくない

「無私」な人だったからです。

しかし後世に生きる僕たちにとって、

信仰とまでは行かずとも、

「お墓」や顕彰施設というのは、

住民たちの苦難と闘いの歴史を知り、

それを未来に生かす術として

大変有意義でもあると考えます。

正造さんも空の彼方から

「うん、それでOK!」

そう言ってくれているかも知れません(笑)

山門

早朝、足利市の鑁阿寺を参拝後、

一旦ホテルに戻り、

そこから車で約40分、

龍雲寺の駐車場に到着です。

山門前。

可愛らしいお地蔵様のお出迎え。

六地蔵にも参拝。

山門。

鬼瓦の足利二つ引き紋、

天辺の五七桐紋と

足利氏の家紋が二つもあるので、

ここは足利氏の領地だったのかも

知れません。

龍神様の彫り物が素晴らしい扁額。

田中正造の墓

山門をくぐり境内へ。

真正面に本堂が見ていますが、

まずは参道左側の

田中正造のお墓へ参ります。

お墓の手前の石碑へ。

「足尾鉱毒事件被告之碑」

※以下、碑文を書き出しましたが、

一部花の陰で読めない部分は

カットしています。

「東に遠く筑波を望み渡良瀬の大河緩かに

めぐる処に禅刹あり

これを瑞光山雲龍寺と言い

境内に田中正造翁の墓がある

そして足尾鉱毒事件被告の

碑を建てるのである

由来渡良瀬川は水源を

足尾山中に発し沿岸に機業漁業を育て

流域の良田に豊かな恵みを与えたが

明治十年足尾銅山の経営が

古河氏の手中に帰してより

施設を拡げ製銅の増産を進めた

鉱毒の処理については配慮を怠った為に

両三年にして早くも

魚介類に被害を及ぼしたと認められる

従来治水に対して万全の対策を欠いた

群馬栃木両県の外一都三県に亘る

農村地帯では洪水の年毎に

鉱毒に悩まされ更に被害は人畜にまで及び

世論は一時に沸騰した

かくして公害の激甚地

館林市板倉町佐野・・

等の有志の決起を促し鉱業停止を叫び

その運動に・・・

この解決に力を尽くした人が

栃木県選出代議士田中正造で

舞台となったのがこの雲龍寺である

明治三十三年二月十三日の払暁請願の為

大挙出京を企て集合した被害民は

凡そ二千余名と数え

鉱毒青年請願上京委員を主軸とし

午前十時当寺を出発し

館林を経て川俣へ向かった

館林警察署では・・憲兵・・・

六十八名を出し他には四散

・・・川俣事件である。

その前の逮捕者と併せ

七十八名が罪に問われた

こうした受難に物故されて

その業績は年と共に忘却されて行く

乃ち郷党の有志これを遺憾とし

相謀ってこれら先人の姓名住所を碑に刻み

その留魂の地雲龍時に建て

その霊を弔わんとするに際し

梗概を叙べてこの文を作る

ああわが郷の先人敢然起って鉱毒と闘い

生民の苦難を救うその遺烈は

脈々として千歳に輝くであろう

昭和四十七年九月」

今から50年以上前の石碑です・・・

「その業績は年と共に忘却されて行く」

これを刻んでからの50数年の月日は、

更に事件を風化させているでしょう・・

人の記憶というものは、

なんと儚いものか・・・

この卒塔婆は、

僕たちが訪問する2週間ほど前に行われた

田中正造の法要の際のものかと推察します。

お墓への参道。

「田中正造の墓および救現堂」

「この墓は、足尾鉱毒問題に

その生涯を捧げた田中正造の墓です。

足尾鉱毒事件は、

明治の富国強兵政策の中で、

足尾銅山から廃棄された鉱毒が

渡良瀬川に流出し

下流の耕地を荒廃させたため、

農民らが損害賠償と

営業停止を要求する大衆運動を

起こした事件です。

田中正造は天保12年(1841)

下野国安蘇郡小中村

(現栃木県佐野市小中町)に生まれました。

鉱毒問題に取り組んだ中心的存在で、

被害民の救済にその一生を捧げました。

また、雲龍寺は

鉱毒被害地のほぼ中央にある寺で、

明治29年(1896)の大水害を契機に

「足尾銅山鉱業停止請願事務所」が

設立され、

正造を始めとする

被害民たちの運動の拠点となりました。

大正2年(1913)、

正造は栃木県足利郡吾妻村

(現佐野市下羽田町)の

庭田清四郎宅で73歳で没しました。

仮葬儀は雲龍寺で、

本葬儀は惣宗寺(現佐野市金井町)で

行われましたが、

その後、遺骨は被害民によって

ゆかりの地に分骨されました。

この墓は正造の没後20年にあたる

昭和8年(1933)に、

渡良瀬川沿岸に住む人々の

浄財によって建てられました。

墓石は高さが約3mあり、

首部の細い特徴のある宝塔です。

平成6年(1994)の解体修理の際、

基壇の最下段中央部に

骨壷が確認されました。

墓の右手に建つ「救現堂」には、

正造が祀られています。

「救現」は、正造が死の13日前に述べた

「現在を救い給え」という

祈りの言葉に由来するものです。

日本の近代史の一端を語るとともに、

低湿地帯の郷土史を示す貴重な遺跡です。」

以上のように記されています。

「死の13日前」は

妻のラッキーナンバー13と同じ・・

やはり妻は田中正造さんに

呼ばれたに違いありません・・・

「鉱毒にいのちのかぎり 田中正造」

ここで幾つかの石碑を確認。

鉱毒事件を詠んだ歌碑。

達筆過ぎて読めません・・(汗)

「足尾に緑を わたらせに清流を」

「田中正造翁70回忌を期して

放流を始め75回忌の年

1985・11・17回帰サケを

墓前に供える」

これは、心にグッと来ますね・・

正造さんが願った

渡良瀬川の美しい流れ、

何よりの供養かと思います・・・

お地蔵様。

お墓へ。

美しく剪定された生垣、

大切にされている感満載です。

妻と共に数珠を持って参拝。

こちらも恐らく、

僕たちが訪問する少し前、

10月4日に行われた

113回忌法要の卒塔婆かと思われます。

113・・妻のラッキーナンバー13と

ここでも被っていますね(笑)

「田中正造翁終焉之地」と刻まれた

お墓左横の石碑。

宝塔の後ろから。

救現堂きゅうげんどう

お墓参りの後は、

田中正造が祀られた

お隣の救現堂へ。

お墓と救現堂。

正面。

「救現堂」

「このお堂は、

大正八年の田中正造翁七回忌の際に

館林市にあった

琴平神社の旧社殿を譲り受け、

渡良瀬川沿岸住民有志の

浄財によって建てられました。

正造翁が最後に

「自分の身は問題ではない。

山河も滅びた。肖像も滅びざるを得ん。

現在を救い給え」と

山河を回復することに

努力せられよと叫ばれたことに因み、

「救現堂」と名付けられました。

堂内には正造翁の座像が祀られており、

毎年十月四日には翁を偲んで

年回法要が営まれています。」

このように記されていて、

「現在を救う」という言葉、

これって「現代」にも通じますね!

簡単に言えば「今でしょ!」って事、

やはりスピードって大切です。

参拝。

祀られたくもなかった正造さん、

左手に持っているのは、

明治天皇への直訴状でしょうか・・

正造さんには申し訳ないけど

この像があるからこそ、

僕たちも崇敬の念を強くする事ができ、

木造があって本当に良かったと思います。

本堂

遂に本堂へ(笑)

「西國 秩父 坂東 百番巡拝」の石碑。

お地蔵様たち。

本堂。

本堂前の円形は、

何を意味するのでしょう?

ここは曹洞宗の禅寺なので、

禅問答かと推測しますが、

答えは見つからず(汗)

参拝。

「雲龍禅寺」の扁額。

本堂前の木。

アイスキャンディーみたい!(笑)

本堂前にてツーショット完了。

土手の向こうは、

あのサケが戻ってきた

渡良瀬川です・・・。

 

  関連記事 - Related Posts -

 

  最新記事 - New Posts -

 

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください