江戸城(巽櫓・桔梗門・坂下門)

 

警備は続くよ、いつまでも

将軍家の江戸城にあった

「見附」と言われる巨大な桝形虎口。

江戸時代は、各藩の大名が

警備を担当していました。

その桝形虎口の一部は、

江戸開府から400年以上経った今でも

現代の武士である皇宮警察によって

厳重に警備されてます。

護る対象は変われども

見附(桝形虎口)の警護は、

日本がある限り、

永遠に続くのでしょう・・・

巽櫓(桜田二重櫓)

巽(たつみ)とは東南の事。

江戸城の東南に位置する櫓なので、

巽櫓ですが、桜田二重櫓とか、

桜田巽櫓という名前でも

紹介されている事が多く見られます。

恐らく、ここだけを

江戸城の東南というには、

あまりにも城の規模が大きすぎるし

もっと南側にも

「蓮池巽櫓」というのがあって

その櫓との兼ね合い等もあるのでしょう。

櫓の名称一つでも

なかなか奥が深い江戸城です(笑)

桔梗濠と巽櫓。

巽櫓は関東大震災で倒壊後、

解体復元されていて、

江戸城に残る唯一の隅櫓です。

巽櫓から大手門方面を撮影。

櫓とビル群のコントラストは、

江戸城散策の醍醐味の一つでしょう!

桔梗門(内桜田門)

巽櫓から濠沿いに歩くと

桔梗門があります。

内桜田門とも言われ、

一般人は通行禁止です。

桔梗濠の手前から撮影。

ここは皇宮警察本部の出入り口なので、

不審者と間違えられないよう(笑)、

手短に撮影を終了。

案内を書き出すと、

次のようになります。

「この門は江戸城本丸南口の通用門で、

本丸へ向かう際には、

大手門と並ぶ登城の門でした。

門の警護は6~7万石の

譜代大名があたっていました。

内桜田門とは、外桜田門

(現在の桜田門)に対しての呼称ですが、

江戸時代から桔梗門という別称が

用いられていました。

門は1614年(慶長19年)に

造られたもので、

桔梗濠沿いの石垣は

1620年(元和6年)に

築造されています。

現在も高麗門と右手の

渡櫓門からなる枡形門が残っています。」

ここには書かれていませんが、

桔梗門という名前の由来は、

江戸城を最初に造った

太田道灌(おおたどうかん)の家紋、

桔梗紋が入った瓦が

このあたりで見つかったからとか、

道灌が築いた泊船亭があったからとかが、

定説のようですが、

明智光秀天海説が正しいならば、

同じ桔梗紋の明智さんを想って

家康さんが、

密かに付けた名前かもですよ~!(笑)

蓮池巽三重櫓石垣

次は濠沿いに、坂下門方面へ。

蛤濠から坂下門の遠景。

でも気になるのは手前の櫓跡(笑)

縄張図で確認すると

名前は「蓮池巽櫓跡」となっています。

濠の角から撮影。

松の木のアップになっています(汗)

正面から。

算木積みの教科書のような隅角石。

色が違っているのは、

後世に修復したからでしょうか・・・

さすが三重櫓だけあって、

土台の石垣の高さも

普通の天守並みにありますね。

坂下門

石垣の次はまたもや門(笑)

坂下門の遠景。

ここも一般人は通行禁止ですが、

僕たちは過去一度、

皇居一般参賀で通った事があります。

ズームでも撮影。

案内を書き出すと

次のようになります。

「門の名は、西の丸から低地に降りる

坂下にあることに由来します。

この門は、

江戸城西の丸造営直後に築造され、

江戸時代は木橋が架かっていましたが、

現在は土橋となっています。

現在正面から見ると渡櫓門があり、

本来は高麗門を備えた枡形でした。

1887年(明治20年)に

高麗門が撤去され、

渡櫓門を現在の場所に設置しました。

現在の皇居外苑は、

江戸時代は西の丸と呼ばれ、

幕府老中などの屋敷がありました。

明治維新後は一時、

明治政府の官衙・兵営に利用されましたが、

明治10年広場として

整備され現在に至ります。」

ここで、案内板に興味深い写真を発見!

昔の写真だと先程の

蓮池巽三重櫓との位置関係も理解でき、

渡櫓門が枡形の内側にあるのが、

よくわかりますね。

これはホント有り難し!(笑)

こちらが坂下門を背にした

「明治10年広場として

整備され現在に至ります」の風景です。

大都会&江戸城、

やっぱりいいな~!!

 

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