2021/02/27
多々良浜古戦場(福岡市東区)
武力だけで天下は取れない
今回も
「多々良浜の戦い跡に行きたい!」
そんな妻の要望に応えての旅です。
主導権は完全に妻(笑)
しかし、そのお陰で、
僕には知らなかった知識が
洪水のように入ってきて、
結果、得しているのは、
僕の方かも知れません(笑)
室町幕府を作った足利尊氏、
彼は、中央での戦に破れ、
九州まで落ち延び、
下手すれば滅びそうな位、
窮地に立たされていたのです。
ただ、この人には人徳があったようで、
捲土重来を思っていたとは言え、
負けて逃げて来たのにも関わらず、
多くの同志が集まってくるという、
何だか紀元前200年頃、
中国の漢を作った劉邦を彷彿とさせます。
やはり武勇にプラスして、
人柄あっての天下というものでしょうか。
多々良浜の戦いで味方に数倍する敵に勝ち、
一気に復活した足利尊氏、
その後は室町幕府成立に邁進しています。
多々良潟
その昔、多々良川周辺は、
多々良潟と言っていたようで、
その案内が河川敷に立てられています。
「多々良潟について」
案内を抜粋すると
「細川幽斎の陣中日記
「九州道の記」に
『いにしへは ここに鋳物師の跡とめて
今もふみみる たたら潟かな』
の歌があります。
多々良潟では砂鉄が採れ
多くの鋳物師が住んでいて、
京都府、妙心寺所蔵の
日本最古の梵鐘(698年)には、
「戊戌年4月13日壬寅収
糟屋評造春米廣國鋳造」と鐘銘があり、
太宰府観世音寺の梵鐘とほぼ同時期に
糟屋郡内の何処かの同じ工房で
鋳造されたと伝えられています」
このように書かれています。
ここが、そんな凄い場所で、
しかも京都のお寺に鐘があるとは、
初耳ですよ!
多々良浜の戦いを感じる旅が、
早速、思わぬ副産物を
生んでくれました(笑)
京都、またまた行きたくなってきました。
案内の横に建てられた、
細川幽斎の歌碑。
いつごろ詠まれた歌なのか
気になって調べてみました。
国会図書館デジタルコレクションから抜粋。
「天正十五年三月」の文字が
記されていますので、
西暦で言えば、
1587年に行われた
豊臣秀吉による九州平定に
従軍した時のものと推定できます。
風流人の細川幽斎にとって、
戦も一つの「旅」だったのでしょう。
この心のゆとりこそ、
その後細川家が、
小倉藩主、熊本藩主として
明治維新まで繁栄していく
大元だった気がします。
中世の海岸線。
今でもこのあたりは、
海と川が混じっていますが、
昔はもっと海に近かったようですね。
多々良川にて
快晴の中、
多々良川のほとりは、
気持ちいい散歩コースです。
海側。
妻が多々良浜の戦いを
テレビで見て印象に残っているのが、
川の真ん中に浮かぶ中洲だと
話してくれたので、
近くまで行ってみることに。
ここが戦いの中心部だったのかな?
な~んて思いに耽りながら、
しばし眺めていたら、
いつの間にか、こんな状況に!!
なんか急に潮が引いてきたのです!
これなら近くまで行けると思い、
無謀にも川の中へ(笑)
お~近い!(笑)
ここから両陣営を見てみます。
足利尊氏側の陣地方面。
多々良川対岸、
天皇方の菊池武敏らの陣地方面。
菊池武敏側の川は深いのに比べ、
尊氏側は浅瀬になっていることも、
戦いを有利に運べた一因かも知れません。
(妻と僕の勝手な推測です)
ここでツーショットで散策は完了・・・
のはずでしたが、
見るとさらに潮が引いていきます!
なんだか、
海を割ったモーゼの神話みたいに
どんどん道が出来ていくのです!
遂に、渡れるくらいに潮は引き、
僕たちは憧れの地?中洲へ。
やった~!上陸出来ますよ!
上陸前の喜びのポーズ。
上陸するとその瞬間
何十羽もの白鷺や、鴨たちが、
慌てて飛び立っていきます。
安息の地を奪ってごめんね(笑)
すぐ帰りますから!
海岸には鳥たちの足跡が。
足利尊氏さんにも
大歓迎されたようで(笑)、
大満足の散策は完了です。
多々良潟の碑
多々良川近くの流通センター内には、
多々良潟の碑という、
古戦場を記す碑があります。
これも妻から教えて貰ったのですが、
行かない手はありません(笑)
全体の風景。
多々良浜古戦場の案内。
江戸時代後期に描かれた
多々良浜古戦場の図。
参拝・・でもないか(笑)
兜塚
近くにはもう一つ、兜塚という、
多々良浜の戦い由来の場所があります。
兜塚の全体。
案内。
戦いの死者は数千人に
及んだと書かれていて、
ここはその鎮魂の場所です。
真ん中の石が兜塚かな?
これにて、今度こそ(笑)
多々良浜古戦場巡りは完了です!