鞆ケ浦(島根県大田市)
支配者の変遷と港
石見銀山の支配者は、
大内氏、小笠原氏、
尼子氏、毛利氏、そして最後は、
関ケ原の戦いで勝利した
徳川氏へと移り、その変遷に伴って、
銀(鉱石)の出荷も
より大量で、より安全に運べる
ルートに変わっています。
ここ鞆ケ浦は、その初期に使用された
小規模な港ですが、
あまりの景色の良さに、
僕の中では大規模な記憶(笑)として
心に刻まれています。
鞆ケ浦へ
馬路駅から
車で5分ほどの鞆ケ浦、
近くなんですが、
石見銀山の大久保間歩ツアーの
集合時間を考えれば、
ここでの「持ち時間」は、
20分もありません。
とにかく急がねばと思いながら
途中の景色に誘われて思わず停車。
琴ヶ浜を遠謀。
とにかく海が綺麗なんです!
トンネルを抜けるとそこが鞆ケ浦。
「鞆」ではなく、
「友」トンネルなんですね。
鞆ケ浦の全景。
思った以上にこぢんまりして、
いい感じですね!
「鞆ケ浦」
案内を抜粋すると以下になります。
「鞆ケ浦は石見銀山柵内の仙ノ山から
直線距離で6.5Kmと、
銀山から最短距離の港にあたり、
銀山開発の初期に銀鉱石を
積み出した港と伝えられています。
銀山の歴史などをまとめた
江戸時代の「石見銀山日記」には、
「石見国馬路村の難古柳鞆岩の浦へ
売船多く来たり」とあり、
鉱石を買い付ける船で
賑わった様子が書かれています。」
また、
冒頭に書いた事と重複しますが、
石見銀銀山のガイドさんによれば、
「灰吹法(鉱石を鉛に溶け込ませ、
そこから銀だけを抽出する手法)
導入以前は、
重たい銀の鉱石を運ぶため
銀山から近い鞆ケ浦が使用され、
灰吹法の導入後は、
鞆ケ浦では手狭となり、
毛利氏時代には、
温泉津の沖泊に変更され、
さらに徳川支配の江戸時代に入り、
海路は危険ということもあって、
主に中国山地を越えて、
尾道から大阪へ牛馬で運んだ。」
このようなお話でした。
ですから江戸時代には、
鞆ケ浦は使われていなかったようです。
まずは、湾内の左側から散策。
穏やかな風景。
振り返って湾の奥を撮影。
堀切?でしょうか。
次に右側を散策。
小島と海。
とにかく綺麗としか
言いようがない景色・・・
先ほどの案内に、
「銀山を開発した神屋寿禎が
天文4年(1535)に
勧請したと伝えられる
弁財天を祀る「鵜島厳島神社」があります」
このように書かれていた
その鵜島厳島神社が鎮座する小島です。
橋は通行止めなので、
ここから神社を遥拝。
御祭神の市杵嶋姫命さん、
こんな素晴らしい場所に
導いてくださって
本当にありがとう!
港の先端方向。
なんか気になる洞窟があるので、
ズームしてみると・・・
探検したくなるような?(笑)
ずっと見ていても
見飽きない・・・
いや僕たちには時間がない(汗)
ツーショットは神様の前で(笑)
港の奥へと戻ります。
対岸の山。
リアス式海岸の断片が
垣間見える光景。
これにて鞆ケ浦の散策は終了し、
この旅二回目の石見銀山を目指します。