斗南ヶ丘市街地跡(むつ市)

 

斗南藩領

戊辰戦争での敗北後、

会津藩は、斗南藩として再興し、

盛岡藩領だった下北半島と、

三戸さんのへ周辺を与えられ、

現在の青森県むつ市に藩庁を置いています。

Googleマップで大まかに言うと

「野辺地町」以北が、斗南藩領で、

この日、下北半島を一周した僕たちは、

ほぼ「斗南藩領一周」だった訳ですね(笑)

斗南藩史跡の案内図。

むつ市内には、

斗南藩士上陸の地円通寺徳玄寺など

数多く残されていて、

その一つが今回訪問した

斗南ヶ丘市街地跡で、

案内図では秩父宮両殿下御成記念碑と

書かれている場所です。

史跡散策

駐車場がどこなのか分からず、

ちょっと迷ったものの、

史跡内の中心部の広場に

停められることを発見し

めでたく駐車完了(笑)

多分、ここでOKなはずです。

まずはエントランスから。

草木は生えているものの、

市街地跡はそのままの状態で

残されているようです。

案内板と東家。

案内を書き出すと

以下になります。

「東北の獅子と呼ばれた会津藩が

戊辰戦争で明治新政府の追討をうけ、

明治元年(1868)九月に

降状の白旗をかかげた。

明治二年(1869)一年一ヶ月余りで

家名再興が許され、

当時生後五ヶ月の松平容大公が跡を継ぎ

三万石を与えられ、

明治三年に藩名を斗南藩とした。

容大公は幼令であったため、

山川浩が権大参事となり、

新藩の執行職として全責任を担った。

斗南藩が傾内の開拓拠点として

市街地を建設したのはここ斗南岡地区で、

藩名をとって「斗南ヶ丘」と名付けられた。

市街地には

一戸建約三十棟・二戸建約八十棟を建築し、

他にも十八ヶ所の堀井戸を製作した。

また、

一番町から六番町までの大通りによって

屋敷割りされ、

一屋敷を百坪単位として

土塀を巡らせて区画した。

その後も開墾、耕作を進めていったが、

明治四年七月、廃藩置県が行われる。

九月には斗南県を含む

五県が弘前県に合併され、

さらに翌年には

政府の援助も打ち切られるなど、

時代の移り変わりに翻弄され

多くの藩士が斗南を去る結果となった。」

市街地計画図、

住居見取り・配置イメージ図。

飢と寒さで、

筆舌につくしがたい苦しみの中、

建設が続けられたと書かれています。

奥の秩父宮両殿下御成記念碑へ。

斗南藩士の故郷、

会津若松市の木「アカマツ」も

植樹されています・・・

井戸跡の復元。

秩父宮両殿下御成記念碑に到着。

「秩父宮両殿下御成記念碑」

以下、案内です。

「この碑は昭和十一年十月に

皇弟秩父宮雍仁親王殿下・同妃勢津子殿下

(旧斗南藩主松平容大の令姪)が

下北郡下を巡遊され、斗南ヶ丘に

立ち寄られたことを記念して

昭和十八年七月に会津相携会

(現在の斗南会津会)が中心となり

建立されました。

昭和三年九月の秩父宮殿下と

松平節子姫(御婚礼後勢津子と改名)との

御婚儀は、戊辰戦争以降、

朝敵という汚名に押しつぶされながら

生き続けてきた会津人にとって、

再び天皇家と強い絆を結ぶことが

できるようになった大きな出来事でした。

やはり会津は逆賊ではなかったいうことが

天下万民に知らしめられ、

さらに最果てのこの地まで両殿下に

足を運んでいただいたという感激が、

た斗南藩が農業授産を夢見て建設した

斗南の地に建つ

この石碑に込められています。」

今では想像もつきませんが、

当時の会津の人々にとって、

朝敵という汚名、

なんとしても拭いたかったに

違いありません・・・

この婚儀は、会津人にとり

計り知れない希望を

もたらしたのでしょう・・・

記念碑に参拝。

裏面。

記念碑バックにツーショット。

斗南藩の苦難、

あまりにも天気が良すぎて、

僕は実感に欠けてしまい、

藩士の皆様には、

申し訳ない限りです・・

真冬ならばもっと身に沁みて

理解できるかもですね・・・

 

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